SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


「秋の女よ」は おばあちゃんの心

【11月23日(土)】
嶋田先生にとっては待ちに待ってた土曜日。定期演奏会以来2週間ぶりに「みんなに会える」「合唱ができる」と思うと、その足取りも軽くなります。
今日も学芸会・展覧会を計画している小学校があることは分かっていて(職務上、名古屋市の全校の計画が分かります)、しかも中学生・高校生はおそらく月曜日から期末テストであることも分かっています。だから参加メンバーが少ないことは想定内でした。
集まってくれたメンバーに、いかに「満足感」と「来て得をした感」を味わってもらうか、そのことだけを金曜日の夜から考えていました。
超有名ラーメン店では行列ができますが、そんな店ではたいてい「お持ち帰り用のラーメンセット」を販売しています。家へ帰っても店内で食べるのと同じ味を再現して食べてもらえるように…という訳です。
本店で食べるのと家でセットを使って調理して食べるのと、全く同じ美味しさなのかと言うと、本店で食べる方がオイシイに決まっています。そんなことは幼稚園の子でも分かる。ですが、せめて家でも「同じような味のラーメンを食べたい」と思うから、けっこう「ラーメンセット」はヒット商品です。
嶋田先生がいかに工夫して「空ノート」を書いたところで、実際に練習の現場で口にした言葉を再現することは不可能ですし、その指導によって生まれた表現や声に対して、どんな歌い方を新たに指示したかを記すことも不可能です。
ですが、超有名店のラーメンセットと同じように、本店で食べられなかった(練習に来られなかった)メンバーは、今日の練習を想像してください。
開口一番「じゃあね」を歌うぞ…と宣言しました。人数やパートバランスなどどうでも良い。まずやったことはメロディーをシッカリと耳に刻み込むということです。1993年、大中先生の指揮でこの曲を歌った時、先生は「生きるとは何か」を心底から理解できて、本当に感動しました。その感動をメンバーに伝えるためには、まずはメロディーを知っておいてもらうことが絶対条件です。
大中先生の音楽は歌う合唱団に難易度の高い要求をすることは極めて少なく、言うなれば自然体で書かれているのが大きな特徴です。メロディーをキチンとうたうことができれば、そこに付けるハーモニーは「空」のメンバーの予想の範疇に入っています。だからとにかくメロディー。「じゃあね」はそういう曲です。
練習で言わなかったことがあります。それは昨夜(金曜日)に楽譜を見ていた時のことです。嶋田先生は谷川俊太郎による歌詞が、まるで天国から今、大中先生が書いて送ってくださった詩であるような錯覚を覚えました。
「思い出しておくれ あの日のこと」とは今の「空」にとってはホームページに上がっている「大中先生が訪ねてくださいました」であり「わたりどり」の動画が撮影されたパーティーの日のことです。「じゃあね」という言葉は、大中先生が今回の演奏会に集まるメンバーに告げる言葉のように思えます。「どこか見知らぬ宇宙のかなたで」「いつか夜明けの夢のはざまで」またボク(大中先生)と会うこともあるかもしれないから、「じゃあね。さようなら…ではなくて、じゃあねなんだよ」という手紙が来たような気がしました。これは12月21日の合同練習で、大人を含めた全員に語り掛けようと思っています。
「いぬのおまわりさん」と「サッちゃん」の音取りはサスガです。先週の高校生指導者に感謝。今日が初見というメンバーも多かったので、繰り返して音を確認しました。
ただ、この曲に限らす、「じゃあね」にしても「秋の女よ」にしても男声がいないと完全なハーモニーは生まれませんので、その意味では「何だか盛り上がらないなぁ」と感じていたメンバーがいたかもしれません。いかにガンバっても半分のハーモニーなんです。だから「何だか盛り上がらない」と思った子がいたとしたら、その子の感覚は一流です。
「秋の女よ」はソプラノのメロディーがムズカシイ。最初のフレーズから高いソをイともカンタンに出さなくてはいけないのですが、これは大変です。
1番から5番まである「秋の女よ」です。巻末の詩も5段に分かれているから分かりやすいですね。そのうち1番と4番は全く同じ音であり、3番はソロだけですから音程の話だけに限れば1番・2番・5番を覚えれば完了です。実際にソプラノもアルトも全員で歌って完了しました。
ですが問題は歌詞です。佐藤春夫のこの歌詞を小学生が「歌わされている」姿は、あまりにもカワイソウでした。だから「歌わされている」のではなく「自分から歌う」状態にするために、是が非でも歌詞の背景を説明する必要がありました。
「春の女」という言葉があるとするならば、それは合唱団「空」のメンバーのような小学生を含めた、まだ「結婚していない女」です。つまり「これから成長していく女」。
「夏の女」という言葉があるとするならば、それは結婚して赤ちゃんを産んで子どもを育てている母親、つまりメンバーの「お母さんたちの年代の女」です。
「秋の女」とは、自分の子供が大人になって、そろそろ結婚して家を出ていくか…という年代の、つまりメンバーにとっては「おばあちゃんにあたる年代の女」です。
母親にとって、自分の子供が大きくなって成長していくことは無限の喜びです。しかし、その喜びを味わいながら、自分の子供が一歩一歩、自分の懐(ふところ)から離れていく寂しさを感じているのです。孫が生まれようものなら絶頂の喜び、最高の幸せでしょう。しかし、その孫が成長すればするほど、おばあちゃんに近づいてくるのは「死」であり「別れ」なのです。
「泣きぬれて」とは「自分が死に近づく恐怖」ではなく「自分の子供や孫が成長していく嬉し涙」であると嶋田先生は感じます。ですが、その「嬉し涙」と「死への恐怖」とは同時に訪れるものであり、表裏一体の涙です。
そのような表裏一体の涙を流せと言っても「春の女(あるいは男)」である年代の合唱団「空」のメンバーには無理な注文でしょう。しかし絶対に身近な証拠があります。
それはメンバーのおばあちゃんです。おばあちゃんの気持ちを想像してあげてください。イメージしてあげてください。おばあちゃんは口には出さないだけで絶対に思っています。
「あぁ、この子(みんな)が結婚するまで、赤ちゃんが生まれるまで、私は元気で生きていられるのかなぁ」って。そう思って、おばあちゃんはみんなにお年玉をくれるんだよ。その気持ちを想像することが大切です。
なぜ大切なのかというと、みんなも嶋田先生も、絶対に絶対に必ず必ず「秋の女」あるいは「秋の男」になる時が来るからです。その時になって気付いても遅い。今、気付くべきです。
これはですね、あってはならぬことですが、みんなが小児ガンか何かに罹って「あと1ヶ月の命」と宣告されたとしたら、その時になって「さぁ、残された1ヵ月を一生懸命生きるぞ。いじめもしないしイジワルもしない」なぁんて気付いても遅い…ということです。気付くなら今、気付きましょう。残された命が1ヶ月であろうと70年であろうと、みなさんの生き方に変わりはないはずです。

次の練習は11月30日(土)です。その後は12月の7日、14日と練習して、その次の21日は200人が集まる合同練習になります。今日は「海の若者」については何ひとつ触れませんでした。なので残された時間と曲に対する理解の度合いとが心配です。いろいろな活動はあろうかと思いますが、「空」のスケジュールについても心の隅に留めておいてください。みなさんの協力が必要です。力を貸してくださいますようにお願いいたします。

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