SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


「空」のみなさんにもう一度だけ問いかけます
「やさしさ」って何ですか?

先々週に引き続き、「童謡」「フォスター」「チコタン」を一通り歌い込みました。10月10日(土)と11日は湯山先生をお迎えし、東海メールクワイアーとの合同練習を含めて2日間で「チコタン」以外の3ステージを通さなくてはなりません。「東北の讃歌」の調性の問題や、「童謡」のタンブリンの練習などを来週(10月3日)に確認するとなると、この日は「チコタン」を中心とした練習が必要であると思っていました。

発声練習…という名目で「童謡」を一通り歌います。発声練習という名目…というのは、発声練習ということになれば、子どもたちは自分のコンディションを高めるために遠慮なく声を出し、音程とか声の質とかをあまり気にしないで、自由に発散した表現ができるということです。発声練習の時間には、そうしてもらわなくては困ります。

そして、「童謡」ステージは、もちろん音程も声質も大切ですけれども、最も大切なことは「生命力」であり「躍動感」であり「自由に発散した表現」なのです。

最初の25分は、発声練習をしながら、「童謡」ステージに最も大切なツボを押さえることができました。けっこうデリケートな表現も聞くことができましたし、何より良くハモっていましたから、たいしたものだと思います。

次はフォスター。音程を確認しながら部分部分のハーモニーを細かく確認していきましたが、とても正確に歌うことができます。子どもたちにとっての問題は英語の歌詞であろうと思われますが、ウロ覚えであっても声を出して歌ってほしい…と言っておきました。極端に言えば、最初から最後まで「ルルル…」とか「ラララ…」で歌ってもらっても構わない。「ああ、そうですか。それじゃあ。」とか何とか言って、実際にワザとそうされては困りますけれども、やれる限りの練習をし、できるだけの努力を重ねた結果、「あっ」と歌詞が消えた瞬間があった時には「ラララ…」で歌っても良いではありませんか?

一番いやなのは、歌詞が消えた時に声を出さないことです。次にいやなのは、歌詞に自信がなくて消極的になることです。わざとでなければ間違っても良い。歌詞が消えたら「ラララ…」で良い。最も大切なことは「積極的な表現」です。

上記のことを、しつこいくらいに、くどいほど繰り返して説明しておきながら、なお英語の練習をするのです。そして、「カタカナの英語にしてほしくない」からと、「ケンタッキー」や「オールド・ブラック・ジョー」などの歌詞の意味を、かなり丁寧に伝えておきました。これ、どうしてだと思いますか?それは、合唱団「空」はラグビーワールドカップの日本代表チームと同じだからです。日本代表チームは、「南アフリカにもスコットランドにも勝てないだろう。一勝もできないかもしれない」と本音では思っていたかもしれません。でも、最後の最後まで、真剣に練習をしたはずです。「勝負」はもちろん大切ですが、それよりも大切なことは「自分たちの未来を切り開くこと」だったはずです。そのために練習をした。「勝負は二の次。自分のために」と。

代表チームは、そのことを、ラグビーという種目を使って実現した。合唱団「空」は、そのことを、合唱という種目を使って体験する。使う種目・取り組む手段が異なるだけで、やっていることは同じです。みなさんがどう思っているかは知りませんが、少なくとも嶋田先生はそう信じていますし、昔も今もこれからも、そのことを合唱という種目を使って伝えていきたいと思っています。

休憩をはさんで「チコタン」です。1曲目~4曲目には「童謡」と同じような「生命力」「躍動感」「自由に発散した表現」が必要です。まだまだ十分とは言えませんが、進歩していることは確かです。嬉しい部分は嬉しい声、悲しい部分は悲しい声、怒っている部分は怒った声。当たり前のことを普通にやるだけなのですが、難しいですねぇ。

欠席者のための報告です。「なんでかな」の冒頭、「なんでかなんでかなんでかなんでかな」の部分と、中間部「チコチコタンチコチコタン、チコチコタンタンチコタン」は、ソプラノとメゾソプラノ上の人は全部歌ってください。つまり上に書いたように歌う…ということです。そして、メゾソプラノ下とアルトの人は、印刷してある楽譜のとおりに歌ってください。団員以外の読んでくださっている方には何のことだか分かりませんね。ごめんなすって。

「だれや」は良くなりました。冒頭の「2人で指切りしたのに」と3回繰り返す部分を全部違う表現で…ということは以前にも記しましたが、できるようになりました。「おいしいエビ・カニ・タコ食べさしたろ思てたのに」と3回繰り返す部分の表現も、違う表現になってきました。「そやから」を2回繰り返す部分もOKです。

「チコタン笑ろてる」から続く「花の中から」は明るく、「写真の中から」は思いっきり暗く、と指導しました。花の中から見えたチコタンの笑顔を見て、一瞬「生きてるのかな」と思ったのが「花の中から」です。そして、よく見たら「やっぱり写真だったんだ」と分かる絶望が「写真の中から」です。ピアノの伴奏も、ちゃんと長調→短調になっています。そこの歌い分け。これも上手くできました。

これらの進歩は、これで十分これで満足…ということではありません。表現というものは、どこまで進歩しても次の段階があります。もっともっと練り上げていきたいと思います。

「だれや」と繰り返して「アホー」へと持っていくクライマックスは、残念ながら未だに不十分です。少しも恐くないんだもの。きれいすぎるんです。誤解を恐れずに書き記すなら、「てらい(=ひけらかすこと、自分を誇ってみせびらかすこと)」があり「はずかしさ」があり、「てらい」と「はじらい」が見え見えです。ダメです。表現になりません。

お母さんが交通事故で死ねば分かるのでしょうね、その気持ちが。そして、お母さんを轢き殺した運転手が酔っ払い運転をしていたのなら、もっと分かるのでしょうね、その気持ちが。そして、その酔っ払い運転手に向かってなら「アホー!」と言えるのでしょう。

ですが「空」のみなさんにもう一度だけ問いかけます。「やさしさ」って何ですか?

「やさしさ」とは、自分はいじめられてはいないんだけれども、いじめられている友達の気持ちが分かるっていうことです。自分は目が見えるけれども、目の見えない人の気持ちが分かるっていうことです。お母さんが生きているけれども、お母さんを亡くした友達の気持ちが分かるっていうことです。思いやることができる力です。

自分が経験したことのないことを想像し、自分が経験したことのない気持ちに共感すること。それが「やさしさ」であり、それができる人のことを「やさしい人」というのです。  

そして音楽というものは「やさしさ」の表現であり、お客様は「やさしさ」をもらうために音楽を聴きにくるのです。

来週(10月3日)はフェールマミ。タンブリンを持って行きますね。

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