SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


「聴く力」を高める講座④

【令和2年4月10日(金)】
合唱組曲「鮎の歌」の5曲目「鮎の歌」。この曲は湯山先生の代表作の一つとして指を折っても誰も異議を唱えないでしょう。その証拠に組曲の楽譜を出版しているのはカワイ出版ですが、嶋田先生の手元には「現代女声合唱名曲選」という音楽之友社から出版された楽譜があり、その中に5曲目「鮎の歌」が単独で載っています。これは音楽之友社がカワイ出版から出版の権利を買ったということになり、同じ楽曲が複数の出版社からマーケットに乗る楽譜として出版されることはあまり例がありません。(ちなみにこの曲集には同じくカワイ出版が権利を持つ「月のうさぎ」と「秋の女よ」も載っています)これは音楽之友社が「他社から出版の権利を買ってでも「鮎の歌」や「月のうさぎ」を載せればその楽譜が売れる」と判断した…と考えても良いと思います。そのくらいの名曲。

音楽は狩野川の流れを表現する湯山先生独特のピアノ伴奏から始まります。この音型は「わさび田」のP15に見られる音型と同じであることは前に記したとおりです。湯山先生はこの音型を川や海など「自然の大きな流れ」を表す時にしばしば用いられますが、「自然の大きな流れ」と同様に「人間の心の成長」を表す時にもしばしば見られます。言い換えれば「自然の大きな流れ」とは「人間の心の成長」と一致するものであるという、作曲家・芸術家としての思想・理念であると分析できます。
「鮎の歌」のどこが「人間の心の成長」なのか。それを理解するためには「鮎」を「自分自身」と置き換えて詩を読む必要があります。「自分自身」が正解なのですが「人間そのもの」と考えても良く、「わさび田」に登場した「少年」や「いちごたちよ」に登場した「ビニールハウスのイチゴたち」と置き換えても良いと思います。ただし、「少年」や「イチゴたち」と置き換えて考える場合でも、その「少年」や「イチゴたち」は結局は「自分自身」の姿であると考えなくてはなりません。
「闘争」「融和」そして再び「闘争」「融和」と対比させてきた後に、最も大切なことは「闘争」でも「融和」でもなく「自分自身の生命」であり「生きることの素晴らしさ」であると、第5曲目は訴えます。
具体的に記しましょう。「狩野川の本流にそそぐ流れは 猫越 火の沢 舩原 そして二の小屋 皆沢 吉奈 修善寺口の桂川」と歌われる、これ全て川の名前です。地図にも載っていない小さな川も含まれます。狩野川は比較的大きな川で、その本流には多くの支流があり、出てきた小さな川の全ての水が集まって狩野川という大きな流れになります。
脱線ですが5年生で行く中津川野外教育では付知川(つけちがわ)という川があったはずです。付知川は付知川のまま海に流れ込むわけではありません。途中で木曽川に合流します。つまり付知川は木曽川の支流の一つというわけです。
問題は「鮎」という魚の習性で、鮎は川石に生えた苔(こけ)を食べて育ちます。その苔は川によって匂いがビミョーに違うらしく、鮎は自分が生まれた川の苔の匂いを覚えている…というのです。この匂い、嶋田先生には分かりませんが鮎たちには分かるらしいのです。そして鮎は、生まれた後で川から海へと下るのですが、大人になってタマゴを産みに川へ戻ってくる時には、桂川で生まれた鮎は必ず桂川に戻ってきて、猫越川で生まれた鮎は必ず猫越川に戻ってくると言うのです。
これを湯山昭という芸術家は「自分の原点(故郷)を決して忘れない」「自分の母を決して忘れない」ひいては「自分とは何か…という命題を決して忘れない」という「人間の在り方」としてとらえ、表現しているのだと思います。
少し詩の説明。
「川石の青」とは「故郷の川の苔」
「水垢」とは「苔」
「あたらしい水垢」とは「新しい生命を育む苔」
「きらめくたち」とは「輝く太刀」です。
「歌のこだま」とは「生命の木霊・生命の歌」
「朝を告げる」とは「未来を告げる」
この部分、同じ「川の流れはうたう 夜明けの歌を…」というフレーズが全部で4回歌われる中での3回目です。1回目は5小節目、2回目は15小節目です。3回目の「川の流れは…」は1回目2回目と形が違いますね。掛け合いになっています。音も1音高い。決定的に違うのは「響かせて」で終わらないで「朝を告げる」が加わっているということです。これはなぜでしょう? 一度、このノートを読むのを中断して考えてみてください。
答えは、1番と2番はともに「山の情景や町の景色」を歌っているのに対して、3番は「生命の息吹と未来」を歌っているからです。
1番2番は「川の流れは歌う 山や町の夜明けの歌を」ですが、3番は「川の流れは歌う 生命の夜明けの歌を」なのです。このあたりのことを分かって聴くのと知らずに聴くのとでは月とスッポンです。いや、知らずに聴いているのなら「聴いた」ことにはならない。ただ「聞いた」だけです。
脱線ですが、「聞く」と「聴く」は何が違うか知っていますか? 中学生や高校生なら答えられるでしょうね。
「聞く」はボーっとしていても車の音や換気扇の音が「聞こえる」こと。英語なら「hear」で「(意識しなくても)聞こえる」という意味になります。
「聴く」は大切な人の話や重要な内容を「聴く」こと。英語なら「listen」で「意識的に聞く、聴く」という意味です。
3回目の「川の流れは…」は「鮎の歌」の感動の最初の頂点ですから、そのように準備して聴いてくださいね。

最初の頂点? と言うことは「次の頂点」があるわけです。また少し詩の説明。
「早い瀬を」とは「白い波を立てて流れる急流を乗り越えて」
「深い淵を」とは「川底が見えないほどの不気味な深さを乗り越えて」
「川をのぼることだけが」とは「故郷・母・自分自身にたどり着くことだけが」
「鮎 鮎 鮎の生命」とは「私 自分 自分が生きる証(あかし)」
つまり、どんなに苦しいことがあっても、どんなに困難なことがあっても、それを乗り越えて自分自身の原点を求めようとする自分自身の生命…ということです。そう感じて聴くと実に感動的です。
この部分は、もう一つ感じてほしい部分があります。
「鮎 鮎 夏」というフレーズが何度か出てくるでしょう? このP43にも「鮎 鮎 …」というフレーズが出てきますが、「夏」で終わるフレーズの時は休符があります。しかしP43の「鮎 鮎」には休符がありません。「鮎の生命」につながるからです。つまり「夏」という季節を表す言葉に向かう時は休符で切って歌い、「生命」という言葉に立ち向かう時には切らないで「生命」と言い切ることが大切なのです。いやぁ、実にウマく作曲されていると思いませんか?
この2度目の頂点が終わった後、曲は再び「川の流れは歌う…」というフレーズに戻ります。このフレーズ、実に4回目で、しかも1回目と2回目と全く同じメロディーと和音です。しかし違うところがある。どこでしょう? 一度、このノートを読むのを中断して考えてみてください。
まず、「夜明けの歌を」の「歌を」にエスプレスが付いています。情感的に…という意味です。
次に、「歌のしぶきを」の「を」にクレシェンドが付いています。
第3に、「あびて きらめき はしる鮎」はmfになっています。
これらの違いはピアノ伴奏にも明確に指示されています。
なぜ、このような表現記号の違いが生まれるのでしょうか。それは3回目と同じく、山や町の情景ではなく「生命の息吹と未来」を歌っているからです。3回目は音の高さと掛け合いで「生命の息吹と未来」を表現しましたが、4回目は1回目2回目と全く同じ音の配列の中で表現記号のみで勝負しているのです。このようなポイントを聴き分けてほしいと思います。
最後の「鮎の歌」のハーモニーは「生命の歌」と思って歌い響かせましょう。

長いノートになってしまいました。それだけ「鮎の歌」という曲が密度の濃い曲だということです。音楽を文章で表すことにはソモソモ無理があるとは思いますが、今は【空ノート】しか手段がありません。ここに記した内容を本当に理解してくれるメンバーがいたのなら、その子は「鮎の歌」に関するスペシャリストであることは間違いなく、嶋田先生にとっては涙が出るほど嬉しいことです。

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