SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


「聴く力」を高める講座③

【令和2年4月8日(水)】
嶋田先生の所属する東海メールクワイアーは実は3月初めから練習を自粛しており、練習が中断されてからもう5週間が経ちます。東海メールクワイアーと合唱団「空」との決定的な違いは平均年齢です。東海メールの平均年齢は60才であり80才を超えたメンバーも何人かいます。万が一感染しようものなら生命に関わる…という心配がありました。人数と練習場所も問題で、ふだん練習に使っているのは今池の愛英幼稚園。幼稚園児が使う教室で40人を超えるメンバーが歌うのですからホリャ密集だわ。愛英幼稚園は私立なので東海メールから感染が出ようものなら幼稚園に大きな迷惑をかけてしまいます。
そうは分かっているのですけれども、これだけ練習ができないとイヤになってきます。自分でも本当に怖いのですが、自分自身の中から「自分は東海メールクワイアーの団員である」という意識が薄れていくのを感じます。これは本当に恐ろしいことです。入団以来37年間も歌い続けているのに…。団員であることのプライドと価値が自分の中で薄れていくのを止めるのに必死です。そのために楽譜を見たりCDを聴いたりして練習が再開した時に備える努力をしています。
東海メールクワイアーが合唱団「空」と比べて不幸だったのは定期演奏会が6月の予定で、しかも数年かけて準備を進めたアグネス・グロスマンを迎えるプログラムが中止になったことです。今、東海メールのメンバーは自宅で練習しようにも何の曲を練習すれば良いのか分からず、本当に戸惑っているのです。7月には長野県で、8月には刈谷市でのコンサートが予定されていて、そこで歌う曲は決まっているのですが、7月8月のコンサートが予定通り開催できるのか、不安と戸惑いを拭えません。

嶋田先生が心配しているのは、合唱団「空」のメンバーが、東海メールクワイアーの団員である嶋田と同じように「自分は合唱団「空」の団員である」という意識やプライドを薄れてさせてしまうのではないか…ということです。
まぁ「空」の場合はまだ中断になってから日も浅いですし、何よりも11月1日の第24回定期演奏会という明確かつ大きな目標があります。だから見るべき楽譜も聴くべきCDも明確で、練習ができない分を一人一人が自分でカバーできる条件が整っています。
今の嶋田先生ができることは、ただ漠然とCDを聴くのではなく、楽譜のどの部分を見ながら、どの音に注意を払って聴けば良いのか、そのヒントを少しでもメンバーに届けること。それしかありませんから、その努力を惜しまないつもりです。
※「小さな目」「鮎の歌」「コタンの歌」の楽譜あるいはCDを持って
いない人はすぐに嶋田先生まで連絡してください。052-852-5407

合唱組曲「鮎の歌」の3曲目「猪譚」。これと4曲目の「いちごたちよ」は姉妹関係にあります。「雉」と「わさび田」がセットの姉妹関係であるように、3曲目と4曲目も姉妹関係。しかも「人間と自然(イノシシ)との闘争」と「人間と自然(野イチゴ)との融和」という対比も同じです。
しかし同じように「闘争」と「融和」とをセットにしながら、1曲目・2曲目のセットと3曲目・4曲目のセットとでは決定的な違いがあります。何だと思いますか? この文章の先を読むのを止めて、ちょっと考えてみてください。
その決定的な違いはピアノ伴奏の作り方にあります。
「雉」「わさび田」のピアノ伴奏は1小節ごとやあるいは1音1音に何を表しているかという意味があり、それは「太陽の光」であったり「湧き出る水」であったりするわけです。いわゆる描写音楽。ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」やピアノソナタ「月光」の第1楽章と同じです。
これに対して「猪譚」と「いちごたちよ」のピアノ伴奏は絶対音楽と言って、音そのもので「闘争」とか「融和」といった大きなイメージを描き出すものです。

○描写音楽・標題音楽 …… 自然の音を楽器によって再構成し、情景などを描写しようとする音楽。
○絶対音楽 …… 標題(自然の音や情景)を音楽で表現しようとする音楽でなく、音楽そのものを表現しようとする音楽。

聴いた瞬間に「闘争」とか「戦い」あるいは「荒々しさ」を感じる。「猪譚」のピアノ伴奏はそれが果たされれば十分なのです。とは言え描写音楽的な部分も所々にあって、たとえば29小節目の分散和音はイノシシが岩と岩との間をピョーンと大ジャンプした音でしょう。空中を飛んでいる間は音がなく、35小節目で着地してイキナリ走り出す…といったイメージですね。
P21やP25はイノシシがあぐらをかいて「だいたい人間って奴(やつ)はよゥ、けしからんのだよなぁ」などと文句を言っている情景でしょうが、ピアノ伴奏の音は何となくそういうイメージを感じさせるものの、「雉」や「わさび田」や「マリモの歌」のような「その情景しか無い」という音楽ではありません。
少し、ムズカシイと思われる語句を説明しておきます。
「寝場(ねば)」とは「寝ている場所」
「見切りの衆(し)」とは「見張りをしている狩人」
「組犬」とは「チームを組んだ猟犬」
「矢受けのづがい猪」とは「昔、身体に矢を受けたキズがある 強いイノシシ」
「二田(にたん)の四郎」とは「二田部落の四郎という名の最強の狩人」
「猪突(ちょとつ)」とは「イノシシの突撃」「前にしか進まないこと」
「勢子(せこ)」とは「追いかけてくる狩人」
「落としてみよ」とは「殺してみろ」
そして唯一、決定的な描写音楽になっている部分があります。191小節目のピアノの音は明らかに二田の四郎が放った猟銃の音ですね。この音で主人公のオレ(イノシシ)は死んだのか、それとも逃げのびたのか、それは歌う人のイメージの中にあります。

4曲目「いちごたちよ」。このピアノ伴奏も基本的には絶対音楽です。湯山先生の名曲「山のワルツ」が思い浮かぶ美しい3拍子です。冒頭の4小節は「いちごハウスの中で笑っている幸せなイチゴたちの歌声」がイメージできますが、それはあくまでも音から受ける印象です。
最初から最後までワルツのリズムが崩れることなく、全体的に感じる「光」とか「笑顔」「幸せ」といったイメージが崩れない絶対音楽です。ですがところどころに湯山先生のセンスが光っているのを見逃してはいけません。
たとえば22小節目と24小節目にあるL.H.と書かれた高い音。これは「聞いてみたかった青空の響きや水の流れの響き」がキラリと光る音を表現するものでしょう。33小節目と35小節目にも同じ音が配置されているのを聴き逃さないでください。
37小節目から42小節目の分散和音は「君は聞いてみたいとおもわないのか?」という疑問の気持ちを表していると思います。
そしてもう一つ、終結部95小節目から続く左手の音は、何回演奏しても「太陽の光」と感じるのです。ビニールハウスの中で笑っていては分からない、時には雨も嵐もくる野原の野イチゴたちだけにしか分からないもの、それは本当の「太陽の光」であり、私たち人間に例えればスマホやコンピューターでは感じることのできない「本当の愛」でありましょう。この和音を引き継いで、音楽は第5曲目「鮎の歌」へと進んでいくのです。見事な構成です。

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