SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


令和合宿2日目

【令和元年8月24日(土)】
合宿2日目。前日に「イルカの翼」を全曲歌ったので、この日は「うたにつばさがあれば」。「元気のヒミツ」は明るく楽しくトランペットのような輝きがある声が必要なので歌い出しから効果的な発声練習になります。合宿を通して総括(そうかつ・まとめる)すると、3日間で一度もいわゆる息の吸い方だとか「ハッハッハッ~」とかの発声練習はやりませんでした。
「げんきのヒミツはねー」とか「いつもあかるーい」とか歌うだけで立派な発声練習になります。メンバーも実際に歌ってみて実感できることでしょう。4曲目の「レンゲをつんだ春」「海であそんだ夏」「ドングリひろった秋」「おしくらまんじゅうの冬」の部分は楽譜上はパートに分かれて記譜されていますが、ずっと全員で練習してきました。本番も全員で歌いました。その本番を指揮していたのは誰あろう大中先生でしたから、練習から本番に至るこの方法論は作曲者公認のものと言えます。実際に全部歌った方がメンバーも楽しいし、各パートの音色を揃える必要もないし、全員の声の質を統一させる発声ができるからです。
まあ、あえてリスクを白状すれば、「レンゲを…」から「おしくらまんじゅう…」までのパートを分ける効果は、右から左から真ん中から、いろんな方向から「喜びの声」が沸き起こってくるその方向性の面白さであり、直後の「きみとぼくと…」で一体感と迫力を生み出すという点にあります。その効果を失うリスクは確かにあります。
ですが、そのリスクを上回るメリットがあるということですね。全員で歌うということは。大中先生も「うん、それで行きましょう」との一言だけで、ずっとそのように指導してくださいました。初演となった第1回定期演奏会だけは楽譜どおりに分けて歌ったはずですけれども。
「となりのカンタロウ」の九官鳥は、全員が「おはよう」「おはよう」「おかえり」「おかえり」「あそぼ」「あそぼ」と2回ずつ歌います。ただしソプラノとメゾソプラノ上は
「♭シドレ」「九官鳥」「ララ♭シド」「九官鳥」「ソラ♭シ」「九官鳥」と歌い、
メゾソプラノ下とアルトで
「ソラ♭シ」「ソラ♭シ」「ファファソラ」「ファファソラ」「♭ミファソ」「♭ミファソ」と歌うこととします。
この共通理解ができたことは大きいですね。それにソプラノとメゾソプラノ上のメンバーが「赤信号みんなで渡れば怖くない」みたいに気楽に音程を外していて非常に楽しい声になります。
実は九官鳥を一人でやるのは大変なんです。声を外すプレッシャーもさることながら、2番でコーラスと違う歌詞を叫ばなければならない。この瞬間芸は練習を重ねれば自信が付くという類のものではなく、本番は頭が真っ白になる瞬間芸で、大中先生も間違えたことがあるそうです。
東京でのコンサートでソプラノ歌手が歌った時、大中先生は九官鳥の着ぐるみ姿で3曲目の前にステージに登場するのが常でした。ある時の本番でマトモに歌詞を間違えて「いやぁ、今日のカンタロウはちょっと寝ぼけてるみたいですねぇ」とか何とか言いながら舞台裏に引っ込んだ…というのは大中先生から聞いた話です。
「きみとぼくと地球のうた」まで歌って休憩をしていたら、京都から先輩が二人応援に来てくれました。大学生となって遠くに行ってしまった子と、看護士になるために修行中の子です。いやぁ、この子たちが小学生だった時は可愛かったですよ~(笑笑笑)。
すでにホームページにはアップされていますが、第1ステージは「大中先生追悼ステージ」ということで卒団生に参加を呼び掛けています。合宿中に約200人の卒団生に手紙を投函しました。その手紙を受け取る前に、ホームページの連絡欄には二人の参加表明があります。
京都と看護士の二人からはまだ正式な「参加表明」はもらっていませんが、多くの懐かしいメンバーとともに大中先生を偲びたいと思っています。
この二人は「白いうた青いうた」を今度の定期演奏会で取り上げてくれ…と嶋田先生に直訴した張本人なので、5曲目「うたにつばさがあれば」はカットして予定変更、「白いうた青いうた」の練習に切り替えました。とても充実した響きで楽しく歌えたことを報告しておきます。
昼食後は15時からチャップリンの「街の灯」を鑑賞する予定なので、13時から練習に突入。京都と看護士には「海と祭りと花の歌」ステージも歌ってもらえる可能性があるので、ここも急遽「海と祭りと花の歌」に変更しました。2時間で全曲を歌い切ってしまったのは大したものです。前日の夜に決めたソリストとの合わせがムズカシかったですね。具体的にはP8です。ここはピアノ伴奏が無いので、全員で互いに聴き合ってタイミングを合わせる必要があります。嶋田先生がオーバーアクションで指揮すれば大丈夫ですが、本番の指揮者は湯山先生です。ここは9月以降も練習が必要です。
午前の後半で「白いうた青いうた」全曲、午後の前半で「海と祭りと花の歌」全曲を通してしまいました。これはかなり荒っぽい練習で、細かい表現を練り上げるという意味では不十分でした。とは言え、荒っぽくても全曲を通して歌うことにはそれなりの意味があり、充実した時間となりました。冷静に考えても、合計3時間かそこらで「白いうた青いうた」と「海と祭りと花の歌」を(両方ともカンタンな曲ではありません)全部通してしまえることには自信を持って良いと思います。

チャールズ・チャップリンの「街の灯」をメンバーに見てもらおうというのは単なる思い付きではありません。みんなに考えてほしかったからです。それは「ラストシーンの後、浮浪者と花売り娘はどうなるか」という問題です。これは映画史上に残る永遠の課題で、答えは誰にも分かりません。この映画の脚本を書いたのはチャップリン自身なのですが、おそらくチャップリンもラストシーンの続きがどうなるかは分からないと言うか考えていなかったと思います。
「You?」 「あなたでしたの?」
「Can You sea Now?」 「見えるようになったの?」
「Yes.I can sea Now.」 「ええ、見えるようになりました。」
この最後の会話は、ふつうに考えるとメデタシメデタシです。花売り娘は目が見えるようになり、浮浪者は自分のことを分かってもらえてハッピーエンドです。
しかし、よく考えると
「ぼくの姿が見えるようになったの?」
「ええ、あなたの本当の姿が分かりました。」
ということになります。浮浪者は自分の正体を、花売り娘に分かってもらいたかったのでしょうか?この時、浮浪者はハッピーだったのでしょうか?
「やっぱり分かってもらえたほうが良い」と言う子がいました。「うーん…」と考え込んでしまう子もいました。それで良いのです。
あなたが花売り娘だったら、どうしますか?
浮浪者に花屋で働いてもらう。浮浪者と結婚する。浮浪者に1000ドル返す。いろいろ考えられます。
では、あなたが浮浪者だったら、花売り娘にそう言われてどうしますか?
花屋で働く? 花売り娘と結婚する? 1000ドル返してもらう? 嶋田先生は3つとも違うように感じます。感じるのであって正解は分かりません。 みんなだったら本当に、どうしますか?
これを考えることが大切です。感じることが大切と言っても良い。考えること、感じることは、つまりイメージを広げることです。イメージできない人に花売り娘や浮浪者の未来を考えることはできない。同時にイメージできない人の歌声は、ヒラガナを音声に変換しているだけの音に過ぎないと思うのです。
86分という時間をコーラスではない時間に投入したのは大きな賭けでした。みんなが何かを感じ、イメージを広げてくれることを願って賭けに出たのです。賭けに出たということは効果があるだろうと信じたからです。
ですが、この賭けが有効であったか無謀であったかは、みなさん一人一人のハートに委ねられることであって、先生が成果を確認したり評価したりすることは不可能です。有効な時間となったことを祈っています。

2日目の記述、いったんアップします。この続きは今夜にでも更新します。

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