SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


平成29年度合宿 2日目 練習の意味

【8月12日(土)】
2日目。発声練習は抜きでイキナリ「北陸の子ども歌」に突入。1曲目「毬つき歌」の音確認をしながら、それを喉の調子を整える時間とします。「いぬのおなかがハハハハハー」なんてやっているより効率が良い。湯山先生の音楽はどの曲でも、歌うことそのものが合唱団の発声をよりよいものにするポイントが押さえてあり、歌うことが発声練習に直結します。このことは、「空」の団員はどの子もナットク済みのことでしょう。
「毬つき歌」は勢いよく歌っていてGoodです。遊び歌なのですから、日本語を美しくとか、違う意味に聞こえないようにとか、そういうことを考える必要はない。バーンとぶつけるように勢いよく元気よく歌うのが非常に大切です。

「眠らせ歌」は一転して、情感豊かな表現で歌います。自分のパートが歌っていない部分では、歌っている隣のパートを歌う…ということを基本操作として共通理解します。具体的には27小節目のソプラノは隣のメゾソプラノのパートを歌います。こうして互いに補い合い、支え合う歌い方は「空」の得意技になってきました。半年かけて続けてきた「全部のパートを全員で歌う」という遠回りな方法での音取り練習が、今、大いなる「近道」となって、みんなの眼前に広がっています。

「遊び歌」は嶋田先生の「研究不足」が露呈しました。先生が学校関係の仕事で練習に参加できなかった間に、効率的な練習が展開されていたことが実感できました。嶋田先生が練習を受け持つよりも、浜田・恒川・高倉のスタッフが受け持った方が効率が良い部分があるようです。「ようです」ではなく、正直に「あります」と断言した方が良いかもしれません。嶋田先生にとっては、恥ずかしいけれども、嬉しい時間でもありました。何よりも嬉しかったのは、3人のスタッフの努力と同時に、「空」の子が3人の先生を信頼し、その指示を自分のものとして取り入れてくれていたことです。

午前中は3曲で終わってしまい、午後に「加賀の子ども歌」と「北陸づくし」を歌いましたが、よく音が取れていて安心しました。残された課題は嶋田先生の方にあるようです。どう表現し、どう歌うか、アナリーゼ(表現の方針)をシッカリと確立させておかなくてはなりません。この2曲も嶋田先生が休んでいる間に(決して好き好んで休んでいたわけじゃないからね)嶋田先生とは違う練習方法によって、かなりのレベルアップが実現していました。

途中に言ったことは練習の意味についてです。練習とは、自分が歌えるようになるためだけにあるのではない…ということです。合宿が終わった後、CDを聴いたり楽譜を見たり鍵盤楽器で音を確認したりして、自分で練習する子がいることと思います。それは非常に素晴らしいことで、また大切なことなのですが、音楽プラザや合宿での「練習」とは意味が違います。音楽プラザや合宿では、みんなが集まっています。そして自分が歌えば相手がこう歌う、人間と人間との表現のやりとりがあります。これは家で一人で練習していても決してできないことです。ヘタクソでも良いのです。ヘタクソでも、自分がこう間違えたら相手がこうズッコケる…という交流があります。そのことを知ることは非常に大切です。

自分が歌う。相手が自分に合わせて歌う。その相手に対して自分はこう合わせて歌う。この表現のキャッチボールこそ「練習」であり、今日、この合宿に参集した意味があるわけです。

くれぐれも言っておきますが、これは家で一人でやる自主練習が意味のないものであるということではありません。家で一人で行う自主練習は非常に大切です。どんどん楽譜を見てCDを聴いてください。絶対に効き目があります。ありますが、それは自分の表現を高めるということです。相手に合わせる力は、みんなが集まった場でしか高まりません。ですが、その「みんなが集まった場で相手に合わせる力」を付けるためには、家で一人でCDを聴いて養われた力がなくてはならない…ということです。

これは先生(指揮者)にとっても同じことです。家でCDを聴き、テンポや強弱を確認し、こんなふうに指揮しようかな…と思っても、実際にみんなを前にして指揮をするとゼンゼン予定どおりにはいきません。なぜならCDを聴いて頭の中で考える指揮と、実際に呼吸をして生きている人間(みんな)を前にして指揮をするのとは全く違うのです。

合唱表現というものは独唱と違って、とどのつまりは相手に合わせる面白さです。だから「相手を大切にする」という心を鍛えるために最も有効な手段であると思っています。

「北陸の子ども歌」を終わらせた後、「ドミソの歌」に入りました。1日目の夜、3人のスタッフから「TSDって何のことか意味がわからない」「トニカとかドミナンテとか、何ですか?」「少なくとも子ともたちがTSDとかトニカとかを、ちゃんと分かっているとは思えない」「説明が必要です」と指摘を受けていました。

ドミソの和音のことをトニカと呼びます。ファラドの和音のことをサブドミナンテ、ソシレの和音をドミナンテと呼びます。おそらくイタリア語です。TSDとは、それぞれの頭文字を表します。トニカはT、サブドミナンテはS、ドミナンテはDですね。

音楽は、ドミソ、ファラド、ソシレの3つの和音があれば、そこそこ何とか成立します。嶋田先生のようにピアノが弾けなくても、左手でこの3つの和音を叩き、右手でメロディーを叩いていれば、何となくそれらしく聞こえます。なので、この3つのことを「主3和音」と呼びます。

逆に言うと、この3つがなくては音楽は成立しないことになります。どんなメロディーでも「俺の左手はドミソしかできない」と言っていては音楽になりません。適当に(?)ファラドやソシレを使い分ければ何とかなります。

で、阪田寛夫は(たとばの話ですが)、ドミソを日本、ファラドをアメリカ、ソシレを北朝鮮と置き換えたのだと思います。あるいはドミソが自分、ファラドは親友、ソシレは宿敵でも良いのです。

人間はいろいろな立場があり、いろいろな価値観があり、好みも趣味も、好きなことも嫌いなことも違います。当たり前のことです。ですが、その違いを許すことができず、戦争やケンカの1歩手前という状態が現実の世界にもありますね。

ですが日本もアメリカも北朝鮮も、そしてあなたの親友も宿敵も、みんな同じ人間です。そして立場や考え方は違っても、この地球をより良くしたいという願いを持っています。その願いがある限り、世界中の人々は国籍や立場には関係なく、みんな友達であり仲間であるはずです。「ドミソの歌」はそのような考え方によって成立している作品であり、だからこそ合唱団だけでなく客席をも巻き込んで歌う意味と価値があるわけなのです。

そんなことを話したら、今までとはゼンゼン歌声が変わりました。明るい声です。そして元気な声です。何より生き生きとしています。先生の話を分かってくれたのかな。だとしたら嬉しいですね。もう、あやういところで、一人一人を抱きしめて、チュッチュってキスをしたくなるほど、みんなのことが好きになりました。話を分かってくれる、本当にステキな子どもたちです。今度、抱きしめても良いですか?

音は良く入っています。その上をいく「生き生きと元気に」という先生の目論見は、あっと言う間に達成され、残った時間で居合わせた父母会のみなさんに聴衆パートを歌ってもらい、聴衆パート付きで1回通すことができました。

あと、楽譜に書いてある「手のマーク」についても説明しましたが、そのことについては各自、楽譜の説明を見てください。とにかく「ドミソの歌」は暗譜が必要なので、そこんところ、よろしくお願いいたします。ガンバロウ。

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