• 「鮎の歌」 熱量とは「人の心に訴える力」

    この日は合唱組曲「鮎の歌」に集中しました。もっとも全部で5曲ありますから,1曲に投入した時間は30分弱です。でも,かなり良くなってきたと思います。

    前回書いたように,心が解放されていない。楽譜の上の小さな空間でだけ音楽が鳴っていて,文字通り「解き」「放たれた」パワーがありませんでした。

    「じゃあ,どうすりゃあ,いいのさ?」と聞かれた時に,「がんばって」としか言えないようでは教師失格です。

    用意した答え,指示した解決方法は「激しく歌ってください」でした。

    2曲目の「わさび田」から開始した練習は,「もっと激しく」「もっと荒っぽく」の連続でした。みんなの中には,静かな山奥で清らかに流れる水と明るい太陽の光で育つ「わさび」のイメージができていて,まずこのイメージを叩き壊す必要がありました。

    「苗を分ける手を刺す針は,水の針」と歌われる,それほど冷たい水に晒されなければならない…。これはかなり厳しい言葉です。詩は続きます。「冷たさよ,水」「寂しさよ,山」は,手を突き刺すほどの冷たさや,心を引き裂くほどの寂しさのことで,そのような環境の中でこそ「真実の強さ」が育つと訴えるのです。

    このような言葉を,なよなよと,柔らかく優しく歌っているだけでは,何も伝わりません。

    続いて5曲目の「鮎の歌」。

    夜明けの静けさから始まって,朝の美しい光が緑の山々に差し込んでくる…。そんな美しいイメージ,柔らかく温かみのあるイメージを叩き壊します。

    「川の流れは歌う 夜明けの歌を」とか「歌のこだまを響かせて 朝を告げる」という詩の「夜明け」「朝」は,1日の中の早い時間のことではありません。「生命の夜明け」「生命の始まり」のことであり,みんなと同じ価値を持つ「生命の誕生」のことです。みなさんを誕生させたのは,お父さんとお母さんなのですが,そんなに簡単にピヨ~ンと誕生したのではありませんよ,みなさんは。

    「速い瀬を 深い淵を」とは,川の流れの速い所や深い所ではありません。私たち人間が生きる上で邪魔をしてくる悪い運命のことです。あるいは,みなさんもこれまでに感じたことがあるであろう「辛いこと」や「悲しいこと」のことです。

    そういうことを乗り越えて,くじけずに,まっすぐに立ち向かうのが人間です。あるいは人間の生き様と言っても良い。みんなだって,辛いことや悲しいことを乗り越えて,今までくじけずに生きてきたのでしょう?

    このような言葉を,美しい声・柔らかな表現だけで押し通してしまっては,何も伝わりません。

    4曲目「いちごたちよ」。

    「いちごハウスのいちごたち」は,日本の子ども。つまり,みなさんです。だから,賑やかな笑い声がいっぱい。1日に3回の食事があり,夜は布団の中で寝て,雨が降っても濡れることはありません(先生もそうだ)。

    一方,「野いちご」とは何か。極端な例えですが,戦争が絶えない国や貧困に喘ぐ国の子どもたちと考えます。食事は3日に1回あれば良い方で,夜は固い地面の上で寝て,雨が降れば濡れるがままの,そんな子どもたち。

    お金・食べ物・家,そういったことを「幸せ」の判断基準とするならば,確かに日本やアメリカは幸せな国でしょう。しかし先生は小学生の時に見たことがあります。プラネタリウムで見るような,満天の星空を。あるいは透き通った碧い海。今,私たちが見ることができなくなってしまったものは,他にもたくさんありますね。そういったことを「幸せ」の判断基準とするならば,私たちは極めて貧しいと言わざるを得ません。

    あるいは心の問題。私たちは「いじめ」という言葉を知っていますが、「野いちご」たちは、それを知らないかもしれません。「えっ?イジメって何?おいしい食べ物ですか?」「イジメという言葉を初めて聞きました。どうやってやるんですか?僕は知らないので、やり方を教えてください」などと、真顔で言うのが(質問するのが)「野いちご」に象徴される子どもたちであるならば、「幸せ」と「貧困」とは一致しないものであると心から思います。

    そんな思いを持って歌う声は、必ず熱量を備えます。熱量とは「人の心に訴える力」です。

    音だけ正確に取れている…、ハーモニーだけ美しく響いている。そんな演奏は先生の念頭にありません。そんな音なら、コンピュータに任せておけば、人間よりも遥かに美しい音を奏でます。

    多少のキズがあっても良い。一人一人が豊かな共感を持った演奏を望みます。

  • 湯山先生練習日「とても良く歌えています」・・・でも、油断はするな!

    前日とは場所を変えてフィオリーレでの練習です。湯山先生をお迎えするような重要な練習の時に,合唱団「空」が使う場所です。なぜ重要な時に使うかというと,響きが素晴らしいからです。

    結論を先に記すと,今回は湯山先生から修正するのに時間がかかるような深刻な指摘はありませんでした。「うん,とても良く練習してありますね」「とても良く歌えています」と,いっぱい誉めてくださいました。

    特に「四国の子ども歌」は絶賛で,「今の段階で(9月の段階で)これだけ歌えれば,先が楽しみです」とまで言ってくださいました。「名旋律集」についても同様です。

    実際に,「空」のみんなは大健闘だったと思います。よく歌えていました。声は前に出ていて積極的な感じだったし,ハーモニーも良く響いていました。

    これは,みんなの健闘があったことが第1の理由ですが,フィオリーレというホールの響きの良さが,みんなの声の響きとハーモニーを助長してくれたことが第2の理由です。

    「みんなの力が足りない」とか「良くなかった」という意味ではありませんよ。みんなの歌声は素晴らしかったです。よく頑張りました。でも,もし湯山先生との練習がぜんぜん音の響かないダメダメホールであったなら,みんなはもっと歌いにくかったでしょうし,湯山先生もみんなの良さを発見するのに苦労したことと思います。

    ひとつの証拠として,「葡萄と風と赤とんぼ」を挙げておきます。湯山先生は「どの部分も,みんな  mf  (メゾフォルテ)になっています。もっと  p  はピアノに。そして  f  は思い切ってフォルテにしてください。」と繰り返されました。冒頭の「みどり小さい粒でした」は,こんなにピアノで歌ってもいいの?と思うほど,思いっきりのピアノを要求されました。

    これは,フィオリーレというホールのおかげで,みんなの声が良く響き,鳴っていたからに他なりません。

    あの表現を,本番の広いウイルホール(800席)でやったらどうなるか。後ろのお客様まで声が届くかな…?

    もちろん届きますよ。嶋田先生がフェールマミのグランドピアノでよくやる,あのピアノの弦を声で鳴らす響きの訓練。1人で,ピアノから3メートル離れて,トライアングルくらいの響きでピアノを鳴らせるようになり(嶋田先生は無理だ。できない),そんな人が20人くらい集まって思いっきりピアニッシモで歌ったら,ものすごく声は小さいのだけれどもメチャクチャよく聞こえるはずです。それは究極,可能です。

    可能ですが,今の「空」がそこまでのレベルであるとは,とうてい言えません。そんなの無理です。一流の声楽家でも難しいでしょう。

    しかし,逆に言えば,湯山先生がみんなの声を聴いて(そんなレベルの,そんな表現に近づくかも知れない)と思ってくださったのなら,それはすごく光栄なことです。「空」にはそのレベルになる可能性があるということですから。

    まあ,とにかく,嶋田先生が言いたいことをカンタンに書けば「油断をするな」ということです。フィオリーレでできたことが,オンボロホールでもできるのなら良いのですけれども,最高のホールで歌ったのですからね。誉めていただいて結果,油断をしていてはダメだよ…ということです。まだまだ,みんなは上手になる。

     

    もうひとつ,大きな成果がありました。それは,冒頭「みどり小さい粒でした やがて葡萄になりました」を思いっきりピアノで歌うと,曲の感じが全く違ったものになることが分かったということです。ああ,「葡萄と風と赤とんぼ」という曲は,こんな歌なのか…と,新しい発見をした人は,嶋田先生だけではありますまい。多くの子が同じ気持ちだったことと思います。

    湯山先生のご指導で,合唱団「空」の新しい表現が生まれた瞬間でした。

     

    湯山先生の次回の練習は10月。どんな練習になるか,今から楽しみです。

     

    おっと,大事なことを書き忘れるところでした。

    湯山先生から最新作の楽譜をいただきました。「さかみちのてじな」と「ちっちゃな手」の2曲です。東京・久我山のご自宅のコピー機で,合唱団「空」のみんなのために,作曲者自らがコピーしてきてくださった楽譜です。みなさん,大切にしてくださいね。

    プログラムには載せませんが,定期演奏会の本番で,お客様へのサプライズとして,この曲を歌って紹介することになると思います。

  • 湯山先生練習日前日プログラムを一通り歌いました

    明日は湯山昭先生をお迎えするという状況での貴重な練習です。フェールマミのホワイトボードに,タイムスケジュールを書きました。

    9:30~10:00 「鮎の歌」

    10:00~10:30 「かもめの歌」

    10:30~11:00 「名旋律集」

    11:00~11:10 休憩

    11:10~11:40 「四国の子ども歌」

    11:40~12:00 「アンコール」3曲

    そして,この日の練習の目的は「湯山先生を目の前にした時の,みんなの不安や緊張を少しでも和らげること」と説明して,練習を開始しました。

    「雉」に少し時間がかかりましたが,時間どおりに4ステージを全曲,歌い通すことができました。ということは,音はかなり頭に入っていて,細かい表現を揃えたりどんなイメージで歌うのかという共感を膨らませたりすることができる段階である…と言えます。

    細かい表現を揃える…つまり表現を練り上げるという練習は,やろうと思えば1曲で3時間でも4時間でも投入することができます。人間の表現に「完璧」「パーフェクト」というものは有り得ないからです。99点を取ったら,次は99.99点を目指すことになり,まるで虹を追いかけるようなことになる。

    ですが,表現することや音楽をするということの面白さは,そこにあるのではないかな…と思います。すごく大変だから,やりがいがある。すごくキビシイから,クリアしたら嬉しい。できたと思ったら次の段階があることに気付くから,またそこを目指す。そんな境地ですかね…。

     

    しかし,特に「鮎の歌」が遅れています。他の曲に比べると,いかにも歌わされているって感じで,楽譜から目ばかりでなく心が解放されていない。投入した時間が少ないので,無理もありませんし,子どもたちの責任ではありません。これから,どのように練習を組み立てるか,その手腕が問われます。

    そうそう,それから先週の9月3日に配った「アンコール」の練習も行いました。湯山先生をお迎えする2週間前に楽譜を配り,先週と今週のたった2回の練習で作曲者に聴いていただくことになりますから,ずいぶんと度胸のある話です。

    度胸があるのは先生であって,みなさんではありません。みなさんにあるのは度胸ではなく力です。生まれて初めて見る楽譜でも,1回の練習でまずまず歌えるようになる力。2回練習すれば,80点くらいまでは行ってしまう力ですね。つまり,聴く,1分以内なら正確に再現する,相手の音に合わせて自分の音を取るなどの,地道な練習の成果です。

    最初に述べたように,80点から99点にするのが大変なんです。「空」の子は,たいていの曲を一発で0点から80点にしてしまうことができますが,そこからが本当の戦いです。

     

    いずれにしても,湯山先生をお迎えする前に,アンコールを含めて全てのプログラムを通すことができたことは,僥倖(ぎょうこう=とても幸せ)なことでした。

  • 「かもめの歌」 自分自身の勇気の歌

    「かもめの歌」の詩について記しておきます。

    日本の詩は全て、五七調の俳句や短歌が基本となっています。つまり、言葉を限りなく省略し、ギリギリにまで切り詰めた説明なり思いなりが述べられます。

    名月を 取ってくれろと 泣く子かな(小林一茶)
    これを言葉のままに英訳したら、
    Please  take  that  beautiful  Moon  for  me,  and  The  baby  cry.  となるでしょうね。
    「どうか月を取ってください、と言って赤ちゃんは泣いた。」
    これは全くナンセンスなことです。言わなければ分からない、書かなければ理解できない英語やドイツ語やフランス語の文化とは全く異なるものです。

    もし、この一茶の俳句を英訳するならば、
    I  love  my  Son,  because  he  said,  Please  take  that  Moon  for  me,  How  pretty  my  Son.  となるでしょう。
    「私はこの子を愛している。この子は「あのお月さまを取って」と私に言う。何という可愛い言葉だろうか。」
    こんな気持ちが一茶の本音でしょう。一茶の日本語をそのまま英語にすると、全く意味の分からない、この上もなくバカバカしい言葉の羅列に終始します。

    「かもめの歌」も同様で、書いてある言葉だけからイメージを広げるのではなく、行間にある川崎洋の思いを読み取らなくてはなりません。
    ですから冒頭「かもめ かもめ 私」は、こうなります。
    「かもめは私 私はかもめ かもめの心は私の心 私の精神はかもめに乗り移る」

    そして「あれは海 あれは波」とは
    「あれは私の目標 あれは私の未来」
    となるでしょう。「いちめんの銀のきらきら」とは「私の未来がキラキラと輝いている」ということに他なりません。

    みなさんが目標や未来に立ち向かう時、厳しいことですが自分自身の力や努力しか役に立たないのは事実です。漢字のテストで100点を取りたいと思ったら、最後に役に立つのは父さんや母さんの励ましでも先生の指導でもなく、自分自身がどれだけ漢字に取り組んだか、そこが問われるでしょう。

    「この広い空のどこにも ほかのかもめの影もない」とは、
    「この目標に立ち向かう時、誰の力も借りることはできないのだ」という決意の表明ということになります。

    「こんなに高く なぜ」「たった一羽で なぜ」とは、オリンピックの福原さんや伊調さんを思ってください。
    「なぜ、こんな高い目標を掲げたのだろう。世界一などという目標を…。その目標には誰もついてこない。目標に向かって戦い、努力するのは自分の力あるのみ」
    そして、かもめの心は(かもめの私が)私自身に(私のかもめに)問い掛けます。
    「なぜ、そんな目標を掲げたの?」と。しかし、その「思い」は言葉にはならず、かもめは(つまり自分の心は)自分自身の生き方の問題ではないのか…と問い返してくるのです。伊調選手も福原選手も、もうこのへんで良いのではないか、北京で終わりにしておけば、それはそれで輝いているのに、なぜリオに挑んだのだろう…と自分に問い掛けたのではないでしょうか。しかし、それは、その人の人生観、生き方の問題に他なりません。

    「青い自由と孤独の空」とは「その絶対に誰も成し遂げていない目標に挑む自分自身の決断と孤独」を意味していると思います。

    「その重い風が 私の翼を鳴らし続ける」とは「目標に向かっている時に囁く悪魔の声が聞こえる。やめてしまえ、やめれば楽になるぞ…と」ということでしょうか。

    そんな時、つまり目標に撥(は)ね返されて挫折しそうになる時、友達や父さん母さんに会いたくなりますよね。「群れを探そう 仲間に帰ろう (かもめは)私は(かもめと)友達や仲間と 連れ立って一緒にいた方が(連れ立って翔ぼうと)良いと思ってしまう」

    しかし、かもめ(私)は思うのです。私は私に正直でありたい。私の目標はただ一つ。あれは海(目標)、あれは波(未来)、それを忘れてはいけないのだ…。と。

    再度「いちめんの銀のきらきら(私の未来がキラキラと輝いている)」と繰り返されますが、後の言葉が違います。そこに向かって「翔ぶよ かもめ わたし」です。

    限りなく白く(輝いている)冷たい(困難な)雲の峰を(目標を)めざして はるかな南へ(戦いへ)

    だから歌詞は冒頭の「こんなに高く なぜ」「たった一羽で なぜ」から「そんなに遠くになぜ」「群れをはなれてなぜ」に変わっています。

    「雲の峰こそ氷の嵐 吹き荒れる飛礫が 私の翼を叩き砕くか」とは、「目標に向かう私に立ち塞がる試練が 私の道に立ち塞がる」ということでしょうね。

    しかし私は言うのです。「たとえ翼を(私の希望が)打たれて堕ちても(敗北しても)私はかもめと(私は私の努力を信じて)誇らかに翔ぼうよ(決して自分を恥じることはない)」と。

    「今、胸にいっぱい 熱い空気をためて」とは「その目標に立ち向かう自分が、今ここにいること。今、そういう努力を続けることのできる自分がいること」が、目標を達成すること以上に素晴らしいことだ…と歌う言葉だと思います。

    吉田選手は銀メダルでした。しかし、それまでに重ねた努力は、メダルの色を超越した胸にいっぱい誇ることのできる努力であったはずです。

    その自分の力、自分の努力を信じて、「翔ぶよ 翔けるよ 若い翼」と詩は続きます。

    そんな努力を積み重ねることのできる人は幸せですね。自分自身を信じることができることは、何百億円・何千億円いや無限のお金を手に入れることよりも貴重で幸せなことではないでしょうか。

    「ひとすじの 光のように (自分自身が)雲をつらぬき 海にひびく」

    そんなふうに障害を乗り越え(雲をつらぬき)、喜びの歌をうたう(海にひびく)ことができた時、私は白い炎となり、私自身の勇気の歌(かもめの歌)を、高らかに歌うことができるのです。

    このような生き方を、先生はしてみたいと思います。50才を超えた今からでも遅くはないはずです。きっとできると思う。

    みなさんは、どう思いますか?

  • 合唱団「空」の総力を結集したリハーサルへ協力をよろしくお願いします

    合宿は多くの成果を残して成功のうちに終わりました。参加してくれた子どもたち、そして設定してくださった父母会担当者の皆様に、心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

    さて、今日はフェールマミでの練習でしたが、グランドピアノを使っての声の響きの訓練はしませんでした。時間が無限にあれば絶対にやるのですが、来週は湯山先生がお見えになります。だから、まずは湯山先生の前での子どもたちの不安と緊張をいかに軽減するかを考えました。

    9時30分から、いきなり「四国の子ども歌」です。全6曲を確認するのに1時間。合宿での成果が生きています。音は良く入っていて、鍵盤ハーモニカでの補助は1回もしませんでした。

    今日、言ったことは、「とにかく明るく元気に、生き生きと歌うこと」です。特に、ゆっくりとしたテンポの「かぜかぜ吹くな」「祖谷のかずら橋」「終曲~子守歌~」が暗くなってしまうことがあるので、何度も「明るく」「明るく」と言いました。

    もう少し後にしようと予定していたセリフを今日、吐きました。それは「終曲~子守歌~」についてです。

    日本の子守歌は、ほとんどが奉公に出された少女が奉公先のご主人様の赤ちゃんを抱いている歌だということは、これまでに何度も記しました。対極的な存在がシューベルトやブラームスなどヨーロッパの子守歌で、それらは本当の母親が自分の赤ちゃんを抱いている歌です。

    奉公に出た少女「ねんね ねんねと ソレ叩いて寝さす」

    叩かれた赤ん坊「なんで寝らりょか 叩かれて」

    この掛け合い、平成の感覚で思うとメッチャクチャ面白いですね。少女が「早く寝やがれ、このクソ赤ん坊。てめえが寝なきゃ、あたいがクソ親父(ご主人様)に折檻(イジメ)されるんだからよぅ」と思って赤ん坊をぶん殴る。それに対して赤ん坊が「何しやがんでぇ、このクソ女。ぶっ叩かれて寝られるわけ、ねえじゃねえかよぅ」と言い返す。

    だから、この悲しい少女の運命を思いやって、悲しく辛く、暗い声で歌うのが正解かと言うとそうではない。

    とっておきのセリフとは「明るく歌おう」です。この背景は確かに悲しいものですが、それが成立したのは江戸時代です。江戸時代とは、嶋田先生みたいな男が腰に長いナイフを差して、頭のテッペンにカマボコみたいなヘアースタイルを乗せている時代です。そういう時代から、明治・大正・昭和・平成と時代が変遷する中で、この歌を歌いながら自分の赤ちゃんに「この歌はこういう意味なのよ」と歌って子守りをした母親は、おそらく一人もいないということです。

    子守歌とは母親が自分の赤ちゃんをあやす歌です。その時は必ず明るく歌う。歌詞が江戸時代から受け継がれてきたものだとしても、その意味を赤ちゃんに伝える必要はありません。だから、日本の子守歌も、シューベルトやブラームスのそれと同じように、全て明るく歌えば良いのです。

    歌い手が知っておくべきなのは歌詞の意味です。そして背景。日本の音楽の土壌は、明治になって滝廉太郎によって急速に発展してきたものです。したがって明治以前の音楽の歌詞をどう歌うかは、実際の子守歌の歌い方や、あるいは合唱の形式でコンサートで歌う場合において、歌詞の内容と表現の実際が矛盾します。

    みなさんは「本当は、そうなのか」と知っているだけでよろしい。そして歌い方は、明治以降のお母さんたちが実際に自分の赤ちゃんに歌ってきたとおりに(つまり、あなたのお母さんが、あなたに歌ってくれたとおりに)、明るく優しく歌えば良いのです。

    「終曲~子守歌~」の場合、最後の最後P50の3段目3小節目で、明るいドミソの和音(実際はレ♯ファラ)になります。湯山先生が最後にこの和音を持ってきて、この音楽を終結させたのは、「明るく歌う」原則をハッキリと示すためだと思います。

    11日は6曲を通して、とにかく明るく元気よく生き生きと歌いましょう。お願いします。

     

    「名旋律集」は歌いませんでした。これは来週10日(土)つまり前日の練習で歌いましょう。

     

    父母会担当者の尽力でアンコールの楽譜を配ることができました。「あめふりくまのこ」「ヨット」「おはよう太陽」の3曲です。

    初見の子も当然います。ですが、音を聴く、楽譜から次の音を予想する、聴いた音は1分以内なら正確に再現するという、これまでの練習の成果で、後半の1時間で3曲を終わらせることができました。

    特に力を入れたのは「おはよう太陽」のP28下段の3~4小節目(P30下段~P31上段も同じ)の和音構成です。ここは決め所と言うべきで、あやふやに歌っていてはシマリがありません。時間をかけて理想に近いハーモニーを生み出すことができました。

     

    来週10日(土)の練習を踏まえて、11日(日)に湯山先生をお迎えします。まだまだ未完成で、初見の子が多くいることは10日の夕食の場で湯山先生に伝えておきます。初見でも自信がなくてもチャレンジ精神が大切です。そう信じます。

    合唱団「空」の総力を結集したリハーサルになることを、切に望んで止みません。協力をよろしくお願いします。

  • ふれあい合宿(3日目)たくさんの成果がありました!

    【8月28日(日)】

    午前中は「鮎の歌」に取り組みました。「鮎の歌」は「命の歌」と読み換えることができます。鮎も、わさびも、雉も猪も、そしていちごたちも、みんな命です。そして生きています。

    「生きる」ということは何なのでしょうか?そのことをこの組曲は、歌う人にも聴く人にも厳しく問いかけています。

    私たちは人間ですから、交通事故や病気にならない限り80年くらいの時間を保証されています。その80年という時間が長すぎるのです。長すぎるがために、私たち人間は「命」というものの本質に鈍感になってしまっています。

    子どもたちに問いかけたのは次のような命題です。

    「もし、あなたが、あと3日の命だと神様に言い渡されたら、その残りの3日間をどのように過ごしますか?」

    「もし、あなたの父さんや母さんが明日死ぬと神様に告げられたら、今夜の晩ごはんをどのように食べますか?」

    鮎は年魚です。年魚というのは1年しか生きないという魚のことです。蝉は1週間しか生きることはできません。そのような運命が最初から約束されて生まれてきたとしたならば、私たちはイジメをするでしょうか。あるいは暴走族になったり、ムカついたと言って人殺しをしたりする時間があるでしょうか。

    そのようなことをする人は、80年という時間の長さに目と心が曇って、命とは何かという問いかけに鈍感になってしまっているのです。

    いちごたちは温室で育てられています。いわば三度三度の食事に苦労せず、夏はクーラーの効いた部屋で、布団で寝ることのできる合唱団「空」の団員のみなさんのことです。そのみなさんが、自分とは違う立場にいる野いちごたちの声に耳を傾けようとします。野いちごとは、三日に一度しか食事をとることができない、寝る時は毎日地面の上という子(世界にはたくさんいます)のことでしょう。ですが、そんな一見恵まれない子の方が知っているのではないでしょうか。満点の空に輝く星のきらめきや、風にそよぐ木々の美しさを。

    鮎は、自分の身を顧みることなく、新しい命を生み出すために、自分が死ぬ場所に戻ってきます。しかも、自分が生まれた川を決して間違えることはなく…。

    そして私たちも命である限り、他の命を奪うことなくして生きていくことはできません。命というものは、私たちを含めて、他の命を奪い取ることによってのみ自分の命を継続させることができないという運命を、不可避的、必然的に持っています。

    こういうことは、子どもには理解できないことなのでしょうか。あるいは、言ってはいけないことなのでしょうか。私は、そうは思いません。

    なぜ、そう思わないかと言うと、「ごんぎつね」「銀河鉄道の夜」などの文学作品や、「鮎の歌」「東北の讃歌」をはじめベートーヴェンやシューベルトなどのあらゆる音楽作品、またムンクやピカソなどの絵画作品など、あらゆる芸術という芸術が、すべて「人間とは何か」「命とは何か」ということを問いかけているからです。その問いかけが、子どもだけを素通りし無視をして成立されたとは到底思えません。

    戦い、相手を倒すことも「命」の本質だと「雉」や「猪譚」が問いかけています。相手の気持ちを理解し共感することが「命」の在り方だと「わさび田」や「いちごたちよ」が問いかけています。

    そして、何のために生きるのかを「鮎の歌」が厳しく問いかけます。

    音楽の構成について、特にピアノの音の意味について言いましたが、ここでは一つだけ記録しておきます。それはP40の3段目、61小節目から始まるピアノの上昇音型。そしてP42の3段目、84小節目から始まる上昇音型です。

    これは和音の構成だけならば下降音型でも良いわけです。構成和音が同じなのですから歌うのに支障はないでしょう。実際に浜田先生に下降音型で弾いていただきました。

    なぜ上昇音型か。それは言うまでもなく、鮎が遡っていく姿を表しているからです。そうすると、歌うみなさんも、上昇するようにエネルギーが高まっていくように歌わなくてはなりません。ピアノと合唱が融合する上に表現が成立するという、極めて分かりやすい例になると思います。

     

    午後は9月の「東日本震災支援コンサート」のための練習を少しした後、最後の2時間は「四国の子ども歌」のおさらいです。

    おさらいですが、厳しい練習を突き付けました。「四国ばやし」のP4からP8までを一人で歌ってもらいました。全員にです。

    そして、その結果はズタズタでした。高校生といえども100点満点の正確に歌うことができた子は一人もいません。小学生ならこれはもう目を覆うばかりです。

    そうなることは当選予想していて、敢えてこの練習に取り組んだ理由は、「できない」「十分でない」と自覚してもらうためです。人によって問題点の多い少ないは違いますが、みんなできないんです。できないのが子どもなんです。赤ちゃんは泣くこと以外何もできないでしょう。みんなは子どもなんだから、できない状態から出発しているのです。授業だって同じですよ。その授業で、その教科書を開いた時、そのページの内容を分かる子は一人もいないという前提で始まるのが授業というものです。

    合唱という活動は、互いに互いが支え合うもの(合唱団「空」の最大の武器です)ですから、時として周囲の声に支えられて、「自分はできる」「自分は歌える」と錯覚してしまうことがあります。

    それは、合唱という活動の極めて優れた面であり、歌えない子も周りに支えられて自然に歌えるようになっていく…という有益な面があります。

    しかし、それは両刃の刃で、支えられて歌っている自分のことを「自分は歌える」と錯覚して、最後までその状態のままでいるという、極めて望ましくない心理を生み出すことがあります。

    これは合唱が持っている大きな弱点です。互いに助け合い支え合うという良さが、支えなくしては自立できないという団員を生み出す危険性をはらんでいるのです。

    で、一人で歌ってもらった。そして「あなたは、今の歌い方に、自分で何点をつけますか?」とだけ問いかけておきました。

    おそらくは、自分の力に絶望し、イヤになってしまった子もいるのではないかと思います。しかし、それで良いのだと嶋田先生は思います。自分はここを失敗した、自分はここを歌えなかったという課題をもって、湯山先生のリハーサルに立つ。これをやってほしい。

    逆に、周りの子の歌声に支えられて、自分はチャンと歌えるのだと錯覚したまま湯山先生のリハーサルに立つ子がいたとしたら、それは極めて不幸なことではないでしょうか。

    自分の課題を自覚した子は、悩みながら9月3日の練習に来ることと思います。その子たちを全力でサポートし、少しでも安心して自信をもって、湯山先生のリハーサルに立ってもらえることができるようにしたいと思っています。

     

    交流という意味からも音楽性という意味からも、様々な試行錯誤があり、そして非常に有益な3日間であったと思います。支えてくださった父母会の方々に、心からお礼を申し上げたいと思います。

    本当にありがとうございました。

  • ふれあい合宿(2日目)たくさんの成果がありました!

    【8月27日(土)】

    26日の夜に高倉さんと恒川さん、浜田先生とでミーティングを行い、2日目は「四国の子ども歌」に全力を尽くすこととしました。湯山先生の練習を控えて、全曲を通したことが一度も無い今の状態ではマズイということです。同じことは「名旋律集」にも言えますが、それは26日にある程度の目途が立ちました。

    朝イチから発声練習など抜きで「四国ばやし」に入ります。発声練習というものは歌いながら各自がそれぞれに整えていくことができます。コンディションを整えるという発声練習ならば、今の「空」には必要ありません。ただ、全体の声の方向性を整えるとか、響きやハーモニーを統一し整理するという発声練習は必要ですから、折を見て(時間があれば)取り組んでいきます。

    「四国ばやし」は勢いが大切です。こういう曲は「空」は得意です。この曲を初めて歌う人たちは、勢いに飲み込まれないように、湯山先生の前では十分に集中してくださいね。

    終結部の「シャリリン」は、以前の「空」の先輩たちが非常に苦労した部分ですが、短い時間で上手く表現することができたと思います。

    「かぜかぜ吹くな」は数え歌です。「一ってきな」「二てきな」「三け飲んで」「四うてきな」「五つきても」「六ずかし」「七く子は」「八かまし」「九この前」「十らさん」というわけです。後半の「一に俵ふんまえて」「二でにっこり笑ろて」「三で酒を造って」も数え歌です。そういうことが分かっていると歌詞も覚えやすいし、何よりも歌うことが楽しくなると思います。そういう意味を伝えました。

    「田植歌」も歌詞の説明をしました。今、「四国の子ども歌」に一番必要なのは、音はある程度入っていますから、歌詞のイメージです。特に民謡やわらべ歌の場合、本当は非常に深刻な内容を歌っているのに表面の意味に捕らわれて本質を理解していないことが多いのです。小学校の音楽の授業では特にそれが顕著です。

    「追いつけよ」とは、誰が誰に追いつけばよいのでしょう?意味は二通りあります。

    一つ目は、四国八十八霊場を巡礼する御遍路さんたちです。御遍路さんは長い日々をかけて四国の八十八か所を回るのですが、当然AさんがBさんに遅れることがあります。Bさんはもう36番目の寺をお参りしているのに、Aさんはまだ25番目のお寺に着いたばかり…。そんな時「追いつけよ、後の(になった)御遍路のAさん。仁井田地方の五社で私(Bさん)は待っているよ」というわけです。

    二つ目は、田植です。Aという村とBという村があったとして、A村はもうすっかり田植が終わっているのに、B村はまだゼンゼン終わっていない。はやく田植をしなくっちゃという囃子言葉です。このような田植歌は日本中いたる所にあり、ようするに早く植えようという気持ちです。植えなきゃ時期が過ぎてしまうぞという意味です。

    ちなみに、この時に嶋田先生が参考として歌ったのは、黒澤明の映画「七人の侍」のラストシーンに出てくる農民たちの田植歌です。父母会のパパさんたちの中でも分かる人がいるかもしれません(笑)。そして、田植のパフォーマンスを見せてくれた男子団員二人にも拍手と感謝を送ります。

    「祖谷のかずら橋」は歌詞の説明はしませんでした(3日目にある程度しました)。パートの絡み方に複雑な部分が多く、音を正確に入れるのが精一杯というのが正直なところです。ですが終結部はキレイにハモりました。

    「手毬歌」は練習番号Aと練習番号Cの違いを整理する時間となりました。小学生4年生から「Cの音が分からない」という指摘を受け、丁寧に繰り返しました。この部分を自分なりに納得して歌えるようになると、合唱の醍醐味を味わうことができるはずです。実に楽しい音楽です。

    終結部の「ホイホイ」は短い時間で済みました。「四国ばやし」の「シャリリン」と同様に、今の「空」はこういうことに抵抗がありません。

    「終曲~子守歌~」は二つのパートが同じ旋律を歌い、残りのパートが違う旋律を歌うという部分が多く、そのパートの組み合わせが変化するため、その歌い方を理解してもらう時間となりました。でも、主旋律を捉えてしまえば、それに合わせて対応してハモらせるという力が育っていますから、短い時間で音の確認を終わらせることができました。

     

    午後はソリスト決めを行いました。「四国の子ども歌」には多くの部分にソロがあります。湯山先生の前で、その場しのぎのソロを決めるわけにはいきません。

    嶋田先生は後ろを向いて、誰が歌っているのかを分からない状態にして、全員にソロの部分を歌ってもらいました。ここで考えたことは、誰の声が伸び伸びと響くかということと、誰と誰を組み合わせると良い響きが得られるかということです。だから、上手下手から言えば一番上手な人が外れたかも知れません。上手な順に①②③とします。一番上手な人は①なのですけれども、①③の組み合わせや①②の組み合わせよりも、②と③の組み合わせのほうが良いと判断された場合には、①を外して②と③を選びました。このあたりのノウハウは、口や文字での説明は不可能ですが、最優先したことは「不公平がない」「贔屓がない」という世界を作ることです。だから先生は後ろを向いて、誰が歌っているのか分からない状態にして、声だけに集中したのです。

    どのソロパートも、二人ないし三人の子を選んだのは、組み合わせの重要性もさることながら、誰かが発熱で当日に倒れた時に対応するためです。

     

    夜は父母会の皆さんの演出で、楽しいレクリエーションの時間となりました。この日までで帰らなければいけない事情のある子も、このレクリエーションを終わってから帰るというくらいで、何だかこの合宿の最大のイベントだったような印象を受けました。

    この時間での子どもたち相互の交流は素晴らしいもので、多くの子が多くの友達の名前を覚えることができたことと思います。その意味では、父母会の力は嶋田の力よりも上だと断言できる時間でした。本当に、ありがとうございました。

  • ふれあい合宿(1日目)たくさんの成果がありました!

    【8月26日(金)】

    合宿の第1日目。練習を開始するにあたって、練習場のホワイトボードに次のような目標を掲げました。

    ○交流の目標 ここにいる全員の名前を覚えよう。自分が覚えれば自分も覚えてもらえる。

    ○音楽の目標 どんなに難しいメロディーでも、聞いて1分以内なら正確に再現しよう。

    そして、まず「名旋律集」の練習をスタートさせました。多くの課題が出てきましたが、ひとつひとつ解決していきます。なかでも時間がかかったのは「矢車草」のリズムでした。これは嶋田先生がボケっとして安易に練習していたことが最大の原因です。

    詳しいことを文字で説明するのは難しいのですが、冒頭「まわれよ」の「まわ」のリズムは付点四分音符+八分音符が正解。嶋田先生のようにボケっとしていると、ピアノの3連符のリズムに合ってしまい、リズムが鋭くなってしまいます。

    それにしても、浜田先生に指摘されるまでの10分間、嶋田先生が叩いた「鋭いリズム」を忠実に再現し、「嶋田先生が間違えたとおりに正確に間違えてくれる」みなさんに、ある意味すごく感心しました。

    逆に言えば、指導していて間違えるなどということは、あってはならないことで、「空」のみなさんが先生に厳しい課題を突き付けたことになります。反省しました。

    しかし、敢えて本音を言えば、みなさんがそれだけ嶋田先生を信じてくれているということを(勝手にそう信じて)とても嬉しく思いました。ごめんなさいね。

    「プレゼント マイ ラブ」も苦労しました。湯山先生の作品には珍しく、旋律の山がたくさんあり、つまり「名旋律」のてんこ盛りという感じがあって、どの部分に頂点をもっていけば良いのか見えにくい意味があります。しかし、やはり最後の「あたらしい思い」に頂点をもっていくのが最善と思いました。

    6曲を通して共通していることは、明るく生き生きとした感じが大切だということです。特にスローテンポの「赤い風船とんだ」「夕やけのうた」などは暗い声になってしまうことが多いので、十分に注意して指導をしました。とにもかくにも「明るく」「生き生きと」がキーワードです。

    午後いっぱい「名旋律集」の練習に取り組み、夜は「かもめの歌」です。時間を投入したのは「かもめの歌」と「きみは鳥・きみは花」の2曲でした。詩についての説明をする時間は無く、ひたすら音取りと歌い方に没頭した時間でした。

    嶋田先生としては、「なぜフォルテなのか」「なぜクレシェンドするのか」といった表現を、歌詞に対する共感とともに練習し組み立てていきたいのですが、ひとまずは表現記号に忠実にすることを優先したわけなのです。それで、まがりなりにも、音を正確にして楽譜に書いてある表現記号のとおりに歌う子どもたちに感謝の念を禁じ得ません。

    特に「かもめの歌」の詩の意味は非常に難解だと思うので、いずれ早い時期に、このページに記載したいと思っています。

    「葡萄と風と赤とんぼ」「雲」「雨の遊園地」については、ずいぶん以前から取り組んでいましたので大丈夫です。特に「雲」「雨の遊園地」は6月の合唱祭で歌い上げた貯金が生きています。6月の演奏(このHPにアップされています)とは微妙に異なる部分がありますが、それは歌うみなさんの心の中で音楽が発酵しているということで、むしろ望ましいことです。

  • 合唱の神様の教え

    今日は本当にしばらくぶりに、嶋田先生が自由に練習時間を組み立てることのできる日でした。その場を、高倉さん、恒川さんが献身的にサポートをしてくれて、思う存分に指導することができました。ありがとうございました。

    さて、場所はフェールマミですからグランドピアノがあります。何回も書いていますが、ピアノの弦を声の響きで鳴らす練習からスタートしました。この練習、アップライトピアノの音楽プラザではできないし、むろん合宿でもできませんから、フェールマミでは必ず取り組むことにしています。以前に比べてずいぶん鳴らすことができる子もいて嬉しく思いました。

    このような基本的な力を養うことなく、いくら曲の練習をしても無駄なのです。いわばザルで水を汲み取ろうとするようなもので、何回やっても水を得ることはできず、時間も労力も無駄なこと、この上もありません。そのことについては後に記します。

     

    久しぶりの2時間30分なので、あるアプローチを考えていました。それは、合唱の神様の教えを「空」で試すということです。
    合唱の神様とは、男声合唱の神様と言われた福永陽一郎先生のことです。嶋田先生は一度だけ、福永先生のリハーサルを受け、本番のステージに立ったことがあります。

    福永先生は「練習嫌い」で有名でした。「合唱をするのに練習は必要ない」と言って憚(はばか)らず、実際に極めて少ないリハーサル回数で素晴らしい演奏を本番で聴かせてくださる方でした。

    その練習は、本番でどう演奏するのかを完全に見据えたもので、本番に備えた試演(つまりテスト。試しに本番通りに演奏してみること)であり、その著書の中でも「練習は練習ではない。試しに歌ってみる、いわば試演であるべきだ」という意味の記述があります。

    この「試演」を実現させるためには、もちろん様々な「力」が必要です。音を集中して聴く、楽譜を見て音をイメージする、聞いた音を正確に再現する、音程を正確にする、強く弱く大きく小さくなど自分の表現を自分でコントロールする、といった力です。

    もちろん大人であるならば、その上に様々な「力」が必要で、福永先生もそれを要求されましたが、大切なことは上記のような「力」があれば「音取り」が必要でなくなるということです。嶋田先生も、福永先生のリハーサルの時、初見に近い状態の曲があったことを白状します。白状しますが、初見であっても、福永先生のリハーサルの後、びっくりするぐらい上手く歌えるようになったなあ…という自分を自覚できたことも事実です。

    神様のリハーサルとは、そういうものなのです。

    もう一人、合唱の神様を紹介します。大阪合唱連盟・関西合唱連盟の理事長を歴任された須賀敬一先生。東海メールクワイアーも長くご指導いただいている方です。須賀先生は、今年の東海メールクワイアーとの練習で、何度も言われました。「あなたたちは、練習というものをカン違いしとる。練習というものは、何度も何度も同じことをやって、自分が何回やったか、何回歌ったか、それを練習することだと思っているんじゃないか?」

    小学生に授業をするのが生業の嶋田先生は???でした。同じ漢字を何度も書く、同じ計算を何度もやる、書いて覚える、やって身に付けるというのが小学生を鍛える方法です。おそらくは日本中の小学生が、同じように思っていることでしょう。「空」の団員の中学生・高校生だって、それが実感でしょう。

    須賀先生は続けます。

    「そんなん、練習と違うで。練習っちゅうもんは、自分の表現を磨く時間なんや。ここに集まった仲間の表現と合わせて、仲間の表現と自分の表現がどう共鳴するか、それを自分自分が試す時間なんや。音取りとか発声とか家で一人でもできることをこの場に持ち込んでくれるなや。ここに集まったメンバーみんなでなくてはできんことを今やる。それが練習やで。」

    今日は「鮎の歌」で、そういう「練習」をやってみようと思っていました。この曲を歌うことが初めてという子もいれば、2回目3回目という子もいます。ましてや「陽が昇る」だとか「ありがとう」「ふるさと」などに時間を投入したために、「鮎の歌」が初見だという子もいます。初見の子も経験している子も、みんなが上手くなる。みんなが「そうか」と新しい発見をする。そんな練習をしたいと思っていました。初見を超える、音取りを超える本質的なもの。それは「音楽に対する共感」であり「仲間と表現を作ろうとする心」です。

     

    「雉」。湯山先生の最高傑作の一つと言えるでしょう。冒頭の、山芋・アケビ・野茨・紅葉と、2番の栗・ブナ・漆・熊笹・桂の草木たちのセリフがこの曲を支えます。

    1番と2番は音が全く同じです。違うのは歌詞だけ。ですが、全く対照的な表現をしましょう。

    1番は直接的に、真っ赤になって雉のために祈る言葉。ダイナミックに直情的に。早い話が熱い表現です。

    2番は心の中の祈り。言葉にしたら猟犬に聞こえてしまいます。真っ青になって体を震わせて雉のために祈る言葉。凍りつくような恐怖の表現で。

    P6の「見えない見えない見えない鳥」は「見えない」という言葉が3回重なりますが、同じように3回歌うだけじゃダメです。アルトの音はミミレレ、メゾソプラノの音はラソソ、ソプラノの音はレレドド。音が違うということは言っている草木が違うということです。ソプラノは栗、メゾソプラノは山芋、アルトは野茨。それぞれが祈っている。

    第2回定期演奏会から歌っている「鮎の歌」ですが、ウィーンで演奏した前回までは、3番で新たに秋柴と野葡萄が登場すると指導してきました。

    嶋田先生だって進化します。今回の演奏は3番の「秋柴の影、野葡萄の蔓」も山芋・アケビ・野茨・紅葉・栗・ブナ・漆・熊笹・桂の草木たちのセリフとします。それは秋柴と野葡萄が雉のために新たに登場するのではなく、「あそこに秋柴がある。あそこに逃げろ。そこには影ができている。そこに隠れるんだ」「あそこに野葡萄がある。あそこに逃げろ。そこには蔓があるから猟犬が蔓に絡まるかもしれない」と、山芋・アケビ・野茨・紅葉・栗・ブナ・漆・熊笹・桂が叫んでいる言葉。

    そして「音もなく雉よ」は極限まで寒い、凍ったような、青ざめた表現で。次の「雉は飛ぶ、雉は飛び立つ」は一転して激烈フォルテで。

    1番、2番、中間部、3番、終結部と、雉と猟犬との距離がどんどん縮まっていくことを念頭に置いておかなくては、これらの表現はできません。

    約1時間、音取りは最小限で、いきなり「このように表現するんだ」というアプローチを続けました。集まったメンバーは、これらの本番を想定した「試演」を見事にこなしてくれました。ある意味、信じられない時間でした。これが可能になったのは、音を集中して聴く、楽譜を見て音をイメージする、聞いた音を正確に再現する、音程を正確にする、強く弱く大きく小さくなど自分の表現を自分でコントロールする、といった力があったからです。何度も何度も繰り返して、これらの地道な練習を続けてきて、本当に良かったと思います。これに応えてくれるメンバーも素晴らしい子どもたちです。

     

    休憩の後、「わさび田」と「猪譚」を試演しました。時間の関係で「雉」ほど細かくはできませんでしたが、手応えを感じました。

    合宿は全て、この手法で行おうと思っています。合唱の神様から学んだことを実践できる機会がある。そういう子どもたちがいる。嶋田先生にとって、この上もない幸せです。
    がんばるぞ。

  • 弱いパットは入らない

    しばらくぶりに「空ノート」を書きました。7月23日は教育委員会から任命された仕事。7月30日は中村区のPTAバレーボール大会の応援。8月6日は学校の地域の盆踊り大会の運営ということで、本来の仕事から考えれば充実した日々と言えますが、音楽をやっていないと死んでしまう嶋田先生としては苦しい日々でした。そこを浜田先生、恒川さん、高倉さんがカバーしてくださり、練習に大きな支障はなかったと聞いています。また、団員の子どもたちの協力(参加する・集中する・真剣に練習する)も大きかったと聞いていますから、「空」は本当に良い合唱団になりました。本当にありがとうございました。

    さて、その間にも今日8月13日に練習するための「ありがとう」「ふるさと」の楽譜が次々とFAXで送られてきて、楽譜の取り出し・印刷や音源のアップなど様々な点で城野さんにご協力をいただきました。

    指導する技術面でも、支援する父母会サポート面でも、感謝の思いでいっぱいです。

    さて、新しく7月30日にメール送信されてきて、今日、城野さんに印刷してきてもらった「ありがとう」の楽譜は、当然のことながら全員が初見となります。初見の状態で、よしかねたくろうさんをお迎えしたわけですから、ずいぶんと度胸のある話です。ですが、今日は素晴らしい時間となりました。

    「ありがとう」は、数年前に歌ったコーラスバージョン(だから楽譜もずいぶん前に配り、そこそこ練習もしている)を「空」だけで歌った後、コンサートの最後に、よしかねさんのソロで「空」は主にバックコーラスに回るという、新しい形になります。そのバックコーラスバージョンが今回、嶋田先生の不手際で、全員が初見ということになったわけです。

    いつ「空ノート」に書いたのか忘れてしまいましたが、育てたい力として、「1回聴いたら、どんな複雑なメロディーであろうとも、1分以内なら正確に再現できる力」を挙げたことがあります。もう一つは、「楽譜を見て、オタマジャクシの位置を見て、次がどんな音か予想する力」を挙げているはずです。

    これらの力が、今日の練習では最大限に生かされました。1回も練習していないのに、鍵盤ハーモニカの音に集中して、楽譜どおりの音を一発で歌うことができました。これは、言ったり書いたりするのは簡単ですが、そう簡単にできることではありません。いわばプロフェッショナルな力です。もちろん100%正確であったとは言えませんが(嶋田先生だって鍵盤ハーモニカの音をずいぶん間違えたし)、ほぼ100%に近い音を出すことができていました。

    これまでの練習、声の出し方、音の聞き方、音と自分の声と合わせ方など、地道で苦しい練習が、間違っていなかったと確信することができました。本当に素晴らしい時間だったと思います。

    「ふるさと」についても同様で、前回と前々回、嶋田先生がいない時に音を取ったと聞いていますが、しっかりとしたハーモニーをつくることができていました。指導スタッフに感謝です。

    さて、ずいぶんとベタ誉めをしましたが、もちろん中には「あらあらあら…?」「もう次に進んじゃってる」「えっ?今どこ?」なんていう子もいたと思います。いて当然です。だって、みんな子どもなんだもの。しかし、それで良いのです。今日はそういう時間でした。積極的に攻める…という時間です。

    だから先生は、何度も繰り返して言いました。「500回間違えても良いぞ。とにかく声を出せ。鍵盤ハーモニカで助けるから。」と。

    これは「弱いパットは入らない」というゴルフの格言を合唱に置き換えたものでした。ゴルフのゴールインする穴(ホールと言います)まで、あと2mだとします。さて、みんなだったら慎重に打ちますか?強気に打ちますか?

    これは、どちらでも良いことです。その人の生き方と言っても良い。ですが、強めに打って穴を通り越してしまうのと、弱めに打って穴の手前でボールが止まってしまうのと、どちらが入る確率が高いかを考えてほしいのです。

    これは小学生でも分かることです。ゴルフの経験なんて関係ない。強めに打てば入るかも知れません。ですが弱めに打っては100%入らないのです。

    上手に歌えるか、音程が正確か、きちんとハモれるか、こういったことに慎重になってビクビクして歌うよりも、間違えても良いからガンガン攻める…という姿勢でいた方が楽しいし、結局は音楽が自分のものになるという場面だってあるのです。

    もっともっと、ずうずうしく、攻めの姿勢をもっていきたいと思います。

    最後に、今日は久しぶりに受験生(高校3年生)の子が何人か来てくれていました。彼女たちのためにも、湯山先生の曲を練習する時間を作りたいなと思いましたが、今日は震災コンサートのための時間に終始してしまいました。残念ですが仕方ありませんでした。ごめんなさいね。

    次回の練習は「鮎の歌」をやりましょう。嶋田先生の精神が「鮎の歌」を欲しています。そして、合宿では「鮎の歌」「四国の子ども歌」「かもめの歌」「名旋律集」を全部、完成させたいと思っています。

    「空」のみんな。力を貸してください。