【令和3年8月21日(土)】
今日も体操なし発声練習なしでイキナリ曲集「われもこう」に突入。昨日あまり細かく練習できなかった「とげのささやき」「われもこう」「就職」「卒業」を少し細かく練習しました。
今日のポイントは「基本的に4小節NOブレス」ということです。もちろん例外はありますが、基本的には4小節を一つのまとまりと考えて息継ぎなしで歌い切る…ということです。
たとえば「とげのささやき」ではアルトの歌い出し「くれないの ばらの」が4小節のまとまりでNOブレスです。
これが「われもこう」ではもっと大切になります。「あの色だけならば 暗すぎる」までが4小節のまとまり。次の「すすきの道をふさぐ われもこう」までで4小節のまとまり。この「まとまり」はフレーズと言ってNOブレスで歌いたいのです。お願いします。忘れないでください。
ただし、新実先生は「あの色だけならば 暗すぎる」と「すすきの道をふさぐ われもこう」の間にVの記号を書いていません。と言うことは、できることなら8小節つなげて「あの色だけならば 暗すぎる すすきの道をふさぐ われもこう」までNOブレスで歌い切ってほしい…と作曲者は願っているということになります。
ところが、さらに楽譜をよく見ると、「われもこう」には1カ所もVの記号が書かれていません。時々四分休符や八分休符がありますから、そこで息を吸わないと死んでしまいます。アルトなんぞは最初(P32)からP34の「かがやく 深い くれない」まで休符すらありません。つまりアルトは最初から24小節を息継ぎなしで歌い切ることになります。
そいつぁ無理ってもんだぜぇ。ってなワケで、途中で息を吸う必要がある。息をするならせめて4小節はつないで歌いましょう…というのがポイントです。できれば8小節つなぐ方が良いに決まっていますが、それで苦しくなって声が変になってはイケナイので、無理をしないで4小節。これがコツです。
そんなことを意識して楽譜を見ると、「とげのささやき」にはVはたった一つ、「就職」のVは二つだけです。いずれの場合も4小節をまとまりにすれば「よあけに うらないして」とか「いなかのまち でていく」のように詩の言葉のまとまりを生かすことになります。
その後は曲集「ぼくは雲雀」と曲集「われもこう」を合計16曲、全部を通して歌いました。昨日も書きましたが、みんなの歌声を聴いていると何となく「こう歌いたい」という気持ちを感じます。今日もそれを感じました。細かく表現を統一していけば1曲に2時間や3時間かかってしまいます。本気になれば、そのように練習することもできます。
しかし、明日は作曲者本人がやってきて指導をしてくださいます。それも1曲や2曲ではなく、16曲をご指導くださるわけで、とてもじゃないけど昨日や今日の前半のような細かい練習をしていては間に合いません。
それよりは、ある部分はみなさんの「こう歌いたい」という思いを生かして、それをそのまま作曲者に聴いていただくことの方が効果的なのではないか…という判断がありました。
11時すぎから16曲を全部歌いました。あたりまえですが、まだまだ荒削りな部分はあるしメンバーが「上手く歌えるかな」と不安に感じている部分もあります。しかし本番までまだ2ヶ月以上あるわけで、明日は思い切り元気よくドーンと歌って、100回でも200回でもマチガエれば良いんです。練習する前に、嶋田先生から新実先生にそのようにお願いします。
そして、100回になるか200回になるか分からないけれど、そのマチガイや失敗を生かして来週から修正していく。これが一番大切なことだと先生は思います。
午後は曲集「やさしい魚」から「感傷的な唄」と「ジョギングの唄」を細かく表現し、さらにその後「天使」と「やさしい魚」を整理しました。ポイントを整理するたびにドンドン歌えるようになってくれるので嬉しかったです。
最後に「天使」「鳥が」「やさしい魚」の3曲を通して歌って5時になりました。何だかんだと言いながら、3冊の曲集を全部歌ってしまいました。
すごかったですね。明日はよろしくお願いいたします。
カテゴリー: 練習日記
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日帰り合宿2日目 言葉のまとまりを生かす
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日帰り合宿1日目 そう歌った方が面白い
【日帰り合宿1日目】
今日はスサマジイ練習になってしまいました。「飛ばし過ぎィ~!!」という声が聞こえてきても不思議ではなかった。
まぁ実際にそんな声が「声」として先生の耳には入ってきませんでしたが、自分ではそう思っています。
集合してから体操も発声練習もなしでイキナリ曲集「ぼくは雲雀」の表現へ突入しました。
「自転車でにげる」はスタッカートに注意です。P6下の段、ソプラノとメゾソプラノの「うそバレた」にスタッカート。つまり軽く切って歌う。
ところがP7上の段「はね くわえて」「さ とにげる」はソプラノはスタッカートがあるけどメゾソプラノにはない。P8上の段のソプラノは「かんの」「りんさ」「りんの」「べーさ」はスタッカートで軽く切りますが、メゾソプラノは全く同じメロディーなんだけどスタッカートなしで軽く切らない。
P6からP8まで、つまり1番はソプラノとメゾソプラノは「1拍ズレているけど同じメロディーだ」というのは今までの練習の話でありまして、実はメロディーはソプラノ。メゾソプラノは全く同じメロディーなんだけれどもハーモニーなんです。だからメロディー(ソプラノ)はリズミカルに歌うけれどもハーモニー(メゾソプラノ)はフンワリと歌う。
一方アルトは「トゥル トゥル」を単純に繰り返すのではなく「ル」のスタッカートを生かして「トゥルッ トゥルッ」という感じで歌う。
それぞれのパートがそれぞれの役割を生かすことによって音楽に立体感が生まれます。これが計算されて作曲されているわけで、キッチリと生かして歌う必要があります。必要があると言うよりも、そう歌った方が面白いです。
ハイ、2番。アルトの歌い方は1番と同じです。アルトは基本の土台なので変化しない。木の枝や葉っぱは風に揺らめいて動いたり季節によって姿を変えたりしますが、根っこは風が吹こうが季節が変わろうが土台はガッチリと支えている、これがアルトです。
2番はソプラノが歌詞でメゾソプラノは「トゥル トゥル」なんですが、P9の41小節目についているスタッカートの場所が同じなのは重要です。つまり「うそ ばれた」と「ルトゥ トゥトゥトゥ」が同時にスタッカートになる。同じようにP11の上の段も(53小節目~56小節目も)「かんの」「りんさ」「りんの」「べーさ」でスタッカートが同時になります。
P8の上の段とP11の上の段をパラパラめくって両方を見て確認してみましょう。ソプラノとアルトは全く同じですがメゾソプラノは全く違うことをやっています。これはメゾソプラノのメンバーだけがガンバレば良いのではなく、ソプラノとアルトのメンバーもこのことを知っていて「P11の方のスタッカートをそろえるんだ」という意識を持っていなくてはならない。
いなくてはならない…のではなく、そう歌った方が面白いのです。
と、まぁ、このような話が「ふたりで」からの全ての曲にあるのですけれども、それを全~ン部書いていたら10ページくらいになります。だから、また明日、口で説明します。
こんな調子で曲集「ぼくは雲雀」から曲集「われもこう」までの16曲を通したのですが、レクレーション大会の時間が近づいてきたので「とげのささやき」から「われもこう」「就職」「卒業」は「好きなように歌ってください」と指示して1回だけ歌いました。
その時に「オッ」と思ったのですが、「好きなように歌って」という指示だったのですけれども、それがデタラメの表現でもバラバラの表現でもなく、何となくまとまっていて、なかなかの表現が生まれつつあるような、そんな感じがしました。ひょっとしたら嶋田先生が「ああしろ こうしろ」などとヘタに表現を叩きこむよりも、好きなように勝手に歌っていく方が「より良い表現が生まれる」かもしれません。その可能性があることは確かです。
そのような「こう歌いたい」というメンバーの思いを大切にして生かしながら、明日も「より良い表現」についてのアプローチを続けようと思っています。
曲集「やさしい魚」は本当に無理矢理に「天使」と「やさしい魚」の音取りを済ませました。終了の5時が迫っていたので本当に無理矢理でした。それでも何とか鍵盤ハーモニカの音についてくるメンバーに拍手です。聴いておられた合宿係のお母さんたちも最後の20分はビックリしたんじゃないかな…。
レクレーションは楽しそうで良かったと思います。NSさんの企画に大感謝。嶋田先生が「NSさんは小学校の先生を目指しているそうですが、NSさんに担任の先生になってほしいと思う人?」って聞いたら多くの人が「ハーイ」と手を上げてくれました。嶋田先生も自分にマゴがいたらNSさんのクラスになってほしいと思います。 -
曲集「やさしい魚」Image
【感傷的な唄】
風が吹くから
生きよう
そう思う前に
もう足が駈け出していた風が吹くから
見えないものを
信じることができた不意に思い出す
トンボがつながるときの
カシャ という音小鳥の歌に
人間の歌で返事しよう
と思ったときのこと体温計のケースに
しのばせて
手渡そうとした恋文は
とうとう渡せないまま
あれから
どこへ行ったのだったか唄好きな蝶番(ちょうつがい)は
他の(よその)星から飛んできた風船と
よく話をしていたし位の低い神様のベンチには
主題のない招待状が
陽に光っていた死んでしまって
肉体もすっかり滅びても
私の
もう此の世のものではない耳に
美しい歌だけが聞こえてくる
そんな祈りが
もしかして
適えられないだろうか結論を先に書きます。「感傷的な唄」は人間が生まれてから死ぬまでをたった3分の音楽に凝縮(ぎょうしゅく)した世界です。
この詩、使われている言葉がカンタンですから、まっすぐにそのまま読めてしまいます。こんなふうに。風が吹くから生きよう と思ったのか。
そう思う前に もう足が勝手に走り出したんだな。
風が吹くから 見えないものを信じたんだな。
不意に(急に)思い出したんだな。
トンボがつながったんだな。
カシャっという音がしたんだな。そんな音するかな?
(中略)
位の低い神様がいたんだな。
そしてベンチに座っていたんだな。
ベンチにはテーマが書いてない招待状があって
太陽の光に輝いていたんだな。
知らんけど、きれいな詩だな。
ほう。死んじゃったんだな。
肉体が滅びたんだな。
耳が天国にでも行ったのかな。
美しい歌が聞こえてきたんだな。
そんなふうに祈ったんだな。
祈りを適えてほしいって思ったんだな。
分からんけど、悲しい感じだな。これまでに嶋田先生が聴いた「感傷的な唄」は大なり小なり上のような感じで歌われていました。
風が吹いて トンボがつながって 肉体が滅んで 美しい歌が聞こえて はい、知らんけどメデタシメデタシ。
こんなふうに歌って、歌う意味があるのだろうか…。申し訳ないけれど、私はそういう歌は「歌ではない」と思います。
まず、「風が吹くから生きよう」じゃないんです。ここが間違いの元。
「風が吹くからもう足が駈け出していた」なんです。
同じように「風が吹くから見えないもの」じゃなくて「風が吹くから信じることができた」なんです。
「風が吹くから」とは、あなたに命をくれた神様が「あなたに命をあげよう」と言ったから という意味です。
だから川崎洋の言いたかったことは、こうなります。神様が「お前に命をさずける」と言ったから
「こんなふうに生きよう」と私が思う前に
もう自分は生まれていた神様が「お前に命をさずける」と言ったから
目に見えない愛、形のない優しさを
信じることができた以下、【 】でおおよその年齢をイメージして、原詩と同じように改行して記します。
「トンボ」は「父さんと母さん」であり、「蝶番」とは「自分の子ども」という意味です。
なぜ「蝶番」が「子ども」なのかと言うと、もともとは他人である「父さん」と「母さん」を結びつけているのは父と母との間に生まれた「子ども」だからです。「蝶番」とは扉(父)と壁(母)とをつなぐ金属の金具です。【生まれる前~生まれた瞬間】
神様が「お前に命をさずける」と言ったから
「こんなふうに生きよう」と私が思う前に
もう自分の命は始まっていた【5才ごろ】
神様が「お前に命をさずける」と言ったから
目に見えない愛、形のない優しさを
信じることができた【10才ごろ】
とつぜん(不意に)思い出したんだ
父さんと母さんが結婚した(写真を見た時の)ことを
祝福の鐘の音が聞こえたことを【15才ごろ】
(そして生まれた私は)小鳥の歌に
人間の歌で返事がしたい
と本気で願っていた【18才ごろ】
小さな箱に
そっと入れて
(あなたに)手渡そうとしたラブレターは
あの時、渡せなかったわ
あの手紙
どこにしまってあるのかな【30才ごろ】
(あなたと私との間に生まれた)赤ちゃんは歌が大好きで
宇宙から飛んできた流れ星に
大喜びで話しかけていたわね【90才ごろ】
私だけの神様がいるところに
「もう(こちらの世界へ)帰っておいで」という招待状が
届いて光に包まれていた【死んだ後】
(あなたと過ごした幸せな)命が終わって
私の身体は無くなってしまたけれど
もう此の世のものではない(私の)耳に
(あなたと歌った)美しい歌だけは聞こえてくる
そんな私の祈り そんな私の願い
もしかしたら
神様は聞き届けてくれるのかしらぜひ、こんなイメージを拡げて参考音源を聴いてみてください。新実先生がなぜ最初の部分を変則の7拍子にしたのか、あるいはP14の下の段の4小節目から実に不思議な響きのピアノ伴奏にしたのか、理解できると思います。
【ジョギングの唄】
おれは常套句を愛する
すなわち
<自分の歩幅で>
というやつだ
および腰の知性なぞ
古い運動靴のように打ち捨てて
わっしょい人は
よりよい明日をつくり得る
と
意地でも思いこんで
わっしょい心臓から押し出された血が
ふたたび心臓にもどるのに
18秒しか かからぬそうな
寸刻ごとに
新しいのだぞおれは
わっしょいおれの生き方は
こうなのだ
こうなのだ
こうなのだ
と確かめながら
いとしい地球を踏んで行くのだ
わっしょい常套句(じょうとうく) → いつもきまって使う文句。決まり文句。
知性 → 物事を知り、考え、判断する能力。朝起きたら「おはようございます」、学校から帰る時には「さようなら」「またね」これが常套句です。世界中の誰もが知っていて、いつも使っている「真実の言葉」ですね。
一方、知性が高いということはようするに頭が良いということなのですが、この詩では知性という言葉をどちらかと言うとマイナスに使っています。つまりドラえもんに出てくる「スネ夫」やちびまる子ちゃんに出てくる「花輪くん」や「丸尾末男くん」みたいな子が、朝教室に入った時に「おはよう」ではなく「やあ、みんな。今日も血中酸素濃度が正常そうで良かったですねぇ。ベイビー」なんて言うことかな。
「および腰の知性」とは、「本当は良く知らないのにいかにも完全に理解しているような顔をして使う難しい知識」です。小学生が「地球温暖化」だとか「血中酸素濃度」などという言葉を完全に理解しているはずはなく、第一嶋田先生だって科学者のレベルで知っているわけではない。私たちがふだん使うコトバは多かれ少なかれ「および腰の知性」です。
ホントかよ、って思うメンバーもいるでしょうね。では、そのメンバーに聞きますが、小学校3年生の理科に磁石の学習があります。◯磁石はN曲とS曲がある ◯NとSは引き付け合うけど、NNとSSは反発する ◯磁石は鉄を引き付ける ◯N曲は北を向く と、この4つを理解していれば3年生のテストなら必ず100点です。
ですが、●NNとSSで反発する力って(磁力線と言います)どんなエネルギーで一体どこから出ているの? ●磁石はなぜ金銀銅メダルは引き付けないの? と聞かれた時に答えられますか?
文部科学省の人に殴られるかもしれないけど、日本中の3年生が「磁石はN曲とS曲があって…」と言っているのは「および腰の知性」です。磁石の本質を理解している喜びではなく、教科書に書かれていることを正しく覚えた喜びに過ぎません。
上の二つの●は、高校生や大学生でも答えられる人は少ないはずです。ひょっとしたら、私たちが知っていることって99%が「および腰の知性」なのかもしれません。4つの部分からできている「ジョギングの唄」の中で、2連目から4連目までは全て「常套句」です。つまり「よりよい明日をつくる」とか「寸刻ごとに(1秒ごとに)新しいのだぞ おれは」とか「おれの生き方は こうなのだ」などは、実際にそのように生きることは簡単ではありませんが「世界中の誰もが知っていて」「世界中の誰もが願っている」生き方ですね。
おれは常套句を愛する
すなわち<だれかの歩幅をマネする>のではなく
<自分の歩幅で>
というやつだ
アヤフヤな知ったかぶりの知識なぞ いらない
そんな知識は古い運動靴のように打ち捨てて 自分らしく生きるのだ
わっしょい人は 人間は おれは
よりよい明日をつくることができる
と
意地でも思いこんで そして必ずつくってみせる
わっしょい心臓から押し出された血が
ふたたび心臓にもどるのに
18秒しか かからない これは真実だ
つまりおれは18秒に1回生まれ変わる
いつも新しいのだぞ おれは
わっしょいおれの生き方は
こうなのだ 先生が決めることじゃない
こうなのだ 大人が決めることじゃない
こうなのだ おれが決めることなのだ
と確かめながら
いとしい(愛する)地球を踏んで行くのだ
わっしょい【天使】
まなざし
だけ が
みえるめ
の かたち
でなくまなざし
という
じ
の
むこう の
いめーじ
がおなじように
つばさ
の
きず がそして
てんし
に
ことよせて
ひどいこと
を
いいそう
に
なる
のをいっしょうけんめい
に
こらえるこの詩に使われている言葉は全部、小学校の国語で学習する言葉です。だから「この詩についてのイメージや感想を書いてください」と宿題を出しても、ほとんどの子はその宿題を出すことができるはずです。小学生はもちろん、中学生や高校生や、大人を含めた全ての人が知っている言葉ですね。
しかし、その言葉の組み合わせになると、簡単には答えられません。
まず、「眼差しだけが見える」とは、どういう意味なのでしょう。
そして、「目の形でなく」「眼差しという「字」の向こうのイメージが」とは、何を意味するのでしょう。このあたりでかなりキビシイですね。
そして、「同じように翼の傷が」となって、完全にノックアウトでしょう。
白状しますと、嶋田先生は21年前にこの曲を歌った時、完全にノックアウト状態でした。
しかし、当時としてはそれなりに努力をして、
ロマンチックに歌おう。自分は友達や仲間に対して「ひどいこと」を言っていないだろうか、そう思う気持ちを歌おう。やさしく丁寧な音楽をロマンチックに表現しよう。
と思っていました。
それで良いのかもしれません。しかし、「なぜロマンチックにやさしく丁寧に歌うのですか?」と聞かれれば、「なんとなく、そう感じるから」としか答えようがありませんでした。
それだけで良いのだろうか…。
詩を歌う時、自分の心と感覚と持っている知恵と知識を全部使って考えてみよう。自分の感受性の全てを働かせて詩人と話をする…そういう努力をしてみよう。
そう思うようになったのは「天使」という曲に出会ったからです。
新実先生に限らず、湯山先生も大中先生も、「ウタ」を作曲する作曲家はみんな、ご自身の感受性の全てを全身全霊で働かせて詩を感じ、そしてイメージを膨らませ、その詩の世界をご自身の「美の世界」に映し込んで再現させているのです。
だから、詩人がいて作曲家がいて、その次に「歌う人」がいて、その「歌う人」が自分であるならば、詩人や作曲家のレベルには遠く及ばないとしても、その努力は必要です。「自分の目」というのは「自分の心」ということ。「自分の目」は、みなさんにとっても先生にとっても「この世で一番優しいもの」であり、同時に「この世で一番きびしいもの」です。自分の心ですから、自分のことを全て分かっていてくれる存在です。でも怖い。
みなさんは、自分が思ったり考えたりしたことを全部、人に話せますか?話せませんよね。
お父さんにもお母さんにも言えない、もちろん友達にも言えない、先生になんか言えるはずがない「自分だけのヒミツ」を持っているはずです。
先生は持っています。
自分がどんなに悪いことを考えているか、どんなにエッチな人間であるか、どんなに変態的でひどいことを感じているか。いやぁ、とても恥ずかしくて人には言えません。もちろん奥さんにも言えません。そのような「自分だけのヒミツ」なのに、この世にたった一人だけ全てを知っている者がいる。それが「もう一人の自分」であり「もう一つの自分の目」なのです。
人間は「もう一人の自分」に対して絶対にウソをつくことができません。また隠し事もできない。怖い存在です。
でも、その「もう一人の自分」は、先生が思わず万引きをしてしまいそうになった時に「やめろ!!!!!」と止めてくれました。悪いことを考える先生が悪いことができないのは「もう一人の自分」がいつも先生を見ていてくれるからです。「この世で一番優しいもの」です。
みんなにもいるでしょう?「もう一人の自分」が…。自分の後ろでいつも自分を見守っている「もう一人の自分」の目
が自分自身だけを
見つめているそれは「目の形」とか
実際の「本物の目」
ではなくてもう一人の自分の目
という
文字でもない
そのような現実のものでもない
自分だけが
感じる「自分の目」
が私を見つめているおなじように
つばさ
の
きず が見える 私の翼は「きず」を持っている それが見えるそして
「私は天使だぞ」「天使はやさしいんだぞ」
と
言い訳をして
友達に ひどいこと 思いやりのないこと
を
言ってしまいそう
に
なる
のをいっしょうけんめい
に
こらえる【鳥が】
鳥が
空を見上げるように
花が つぼみを ほどく鳥が
羽ばたこうとするように
花が 葉をしげらせる鳥が
飛びたつように
花が 咲きそめる鳥が
歌うように
花が におうそして
人は ことばで
鳥のように飛び
花のように咲く「鳥が」については説明は必要ありません。本当にストレートに、詩の世界が私たちの心の中に広がります。素晴らしい詩です。
楽譜には詩人の川崎洋さんが「五つの詩に寄せて」について、
鳥も人も花も、見た目の形状ほど、実はお互いに変わってはいない、血のつながった存在なのだという気持ちがわたしにはある。
と記されています。
この詩人の言葉についてだけ、嶋田先生の考えを述べておきます。
それは、この詩が「鳥」と「花」をチェンジしても全く同じ素晴らしさで成立する…ということです。つまり【花が】
花が
つぼみをほどくように
鳥が 空を 見上げる花が
葉をしげらせるように
鳥が 羽ばたこうとする花が
咲きそめるように
鳥が 飛び立つ花が
におうように
鳥が 歌うそして
人は ことばで
花のように咲き
鳥のように飛ぶこの詩も素晴らしい世界です。もしかしたら「花が」の方が好きだ…という子がいるかもしれません。でしょ?
問題は、「鳥も人も花も」という川崎洋の言葉です。つまり「人」という言葉。これは少し乱暴な方法ですが、以下のように置き換えると分かりやすいと思います。【人は】
鳥が 空を見上げるように
花が つぼみをほどくように
人は ことばで………A………鳥が 羽ばたこうとするように
花が 葉をしげらせるように
人は ことばで………B………鳥が 飛びたつように
花が 咲きそめるように
人は ことばで………C………鳥が 歌うように
花が におうように
人は ことばで………D………………………の部分に、みなさんならどんな言葉を入れますか?
あいさつをする ともだちをはげます 友情を不滅にする 愛を語る 未来へとすすむ などなど。
このABCDに自分なりの言葉を入れてみましょう。それが、詩人と対話する ということなのです。【やさしい魚】
やさしい魚のやさしいうろこが
月曜日に一枚火曜日に二枚剥がれた剥がれたうろこは銀色にひかりながら
海の中見えない底へ沈んでいくやさしい魚のやさしいうろこが
水曜日に三枚木曜日に五枚?がれたうろこが剥がれて
やさしい魚はひりひり痛いやさしい魚のやさしいうろこが
金曜日に十四枚土曜日に三十八枚?がれた日曜日 歌おうと海に来てみれば
砂に終止符のようなやさしい魚のなきがら『幸福な王子』という、アイルランドのオスカー・ワイルドが書いた童話を知っている子がいるかもしれません。こんな話です。
ある街に「幸福な王子」と呼ばれる像がありました。この国で若くして死んだ王子を記念して立てられたこの像は、両目には青いサファイア、腰の剣には真っ赤なルビーが輝き、身体は金箔に包まれていて、とても美しく輝いていました。
冬を越すために南の国へ行こうとしていたツバメが寝床を探し、王子の像の足元で寝ようとすると突然上から大粒の涙が降ってきました。王子は街の不幸な人々に「自分の身体の宝石をあげてきてほしい」とツバメに頼みます。ツバメは王子の剣に使われていたルビーを病気の子供がいる貧しい母親にとどけ、両目のサファイアを幼いマッチ売りの少女に持っていきました。南の国に渡ることを中止し、街に残ることを決意したツバメは街中を飛び回り、両目をなくし目の見えなくなった王子に色々な話を聞かせます。王子はツバメの話を聞き、まだたくさんいる不幸な人々に「自分の身体の金箔を剥がして与えてくれ」と頼むのでした。
やがて冬がきて王子はボロボロの姿になり、南の国へ行けなかったたツバメも次第に弱っていきます。ツバメは最後の力を振り絞って王子にキスをし、彼の足元で死んでいくのでした。
この様子を見ていた神は王子とツバメを天界に入れ、そして王子とツバメは楽園で永遠の幸福を得たのでした。この童話を知っていると、5曲目の「やさしい魚」に詩人が込めたイメージが膨らむことは明らかです。
曲の最後で「砂に終止符のようなやさしい魚のなきがら」と歌う時、もちろんさびしく悲しく歌うのでしょうがそれだけでは足りません。王子とツバメがそうであったように「やさしい魚は楽園で永遠の幸福を得たのでした」というメッセージを客席に伝えて音楽を終結させましょう。今の「空」のメンバーなら、きっとそれができるはずです。
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嶋田先生が一番やらなきゃいかんこと
【令和3年8月14日(土)】
お盆の真っ最中なのですが練習を続けました。
合唱部をやっていた時もそうでした。そこしかお仕事を休めない父さん母さんなら家族でお出かけできるのもそこしかない。だから練習に来られる人たちでガンバって、みんなが揃った時に少しでもカバーし合えるようにしよう…。というのが合唱部時代の先生の主張でした。ある年などは8月31日まで休みなく練習したこともあります。お盆に限らず、メンバーは変わりばんこに旅行に出かけたり、じいちゃん・ばあちゃんの家に出かけたりします。お互いにお互いのいない日をカバーし合おう…という気質が、結果的に宝南小学校のレベルをアップすることにつながりました。
来週から日帰り合宿が始まり、その最終日(22日)に新実先生をお迎えするのですから、練習は白熱しました。ノンビリ行こうぜ…などとは言っていられません。
まずは先週・先々週にいなくて今日は参加できたメンバーのために曲集「われもこう」を通します。この曲集はもう何週間も続けて通して歌っていますから、1週間に1回しか歌っていなくてもかなり響くようになってきました。表現に関する指示はいっさい出しません。思い通りに好きなように歌い通せばOKと言ったのですが、それでもビミョーに「空」独特の表現が生まれつつあります。これは一人一人が「こう歌いたい」という思いを持っている証拠で、とても頼もしいことです。今日は「こう歌いたい」という思いが当然バラバラなのですが、それを日帰り合宿で嶋田先生が整理します。そして最後に新実先生が来て「このように作曲したのはこういうわけだから、このように表現しましょう」となる。名古屋弁で言えば「ドエリャーおもしれえ練習になるナモ」っちゅう話になるがや。
続いて曲集「ぼくは雲雀」に入り、「自転車でにげる」「ふたりで」「なぎさ道」「あしたうまれる」までを通しました。ここまでの12曲が復習です。
「ちいさな法螺」からが本格的な練習です。この曲は、言葉をキレイに(お客さんに伝わるように)歌うことよりも、言葉を勢いよくエネルギッシュに発音することの方が大切です。その結果、「歯磨き忘れたと長い面しかめておった」という歌詞が「はみ」「ガキ(悪ガキのガキ)」「わす」「レタっと」「なが」「イツラ」「鹿め」「てオッタ」みたいに聴こえても良い。
外国の人が「わたっク しわ2 ほん語オ べん キョーし ていマっす。みなっさ ンよろッシ クおねが いっしマス」と自己紹介するような感じで良い。そうなっても良いからエネルギッシュに発音しましょう。
P39は和音です。各パートの動きはムズカシクありません。ここは一転してきれいなハーモニーを作る部分です。35~36小節目と42~43小節目はリズムに注意しましょう。
「ぼくは雲雀」は6月の合唱祭で歌う予定でしたから久しぶりに歌いましたが大丈夫です。1番「英語は苦手さ」から「麦畑」まではソプラノとアルトで交互に歌い、手拍子でお互いに支え合う形になっています。ここは全員で両方とも全部歌えるようにしましょう。つまり全員で全部歌って、全員で全部手拍子をするのです。
そのようにしておいて、本番では楽譜どおりに分かれて歌います。間違いなくそうなります。
手拍子をしていて歌わない部分は実は歌わないのではなく、オリンピックの陸上競技で「位置について。よーい」と構える時の、ピストルが鳴った瞬間に全力でスタートする直前の準備に似ています。
つまり会場のお客さんから見ると、右と左から変わりばんこに「全力スタートの声」が聴こえるような、そんな感じです。
みなさんはヒバリが鳴いている草原(麦畑)に行ったことはないと思いますが、ヒバリという鳥はパッと飛び上がって空のものすごく高いところへ上ってゆきながら鳴くのです。本当に、麦畑のあちらから飛び立ち、こちらから飛び立ち、またあちらから別のヒバリが飛び立って、みぃんな高く高く空へ上っていきます。ホントだぜ。じいちゃんやばあちゃんに聞いてごらんよ。先生は実際に見たから間違いありません。
そんな感じが出したい音楽です。
「わらべが丘」は、これまた打って変わったステキなハーモニーの音楽ですね。この曲の感じをソラノートのような作文で表そうというのは無理な話です。歌詞の意味は別にアップしますから読んでみてください。ただ、「たどるばかり」「まわるばかり」が「たどる」「バカ」「りー」とか「まわる」「バカ」「りー」などと聴こえないように注意しましょう。
「ライオンとお茶を」も合唱祭の予定曲でした。歌詞の意味は別のアップを読んでおいてください。
「ちいさな法螺」「ぼくは雲雀」「わらべが丘」「ライオンとお茶を」を整理して練習した後で、曲集「やさしい魚」の「感傷的な唄」と「ジョギングの唄」を復習で1回通しました。感心したのは「ジョギングの唄」で、先週はバラバラだったので少し細かく練習をし直したのですが、今日は非常にエネルギッシュな歌声が響いたことです。「感傷的な唄」の変則7拍子にもだいぶ慣れてきました。やっぱり1回ずつでも毎回歌っておくって有効なんだなぁ…と、みんなのおかげで改めてそう思いました。大感謝です。
残り20分。「天使」を細かく練習するのは初めてです。今日は「天使」と「やさしい魚」を全部やろうと思っていたのですが、授業がヘタクソで「天使」のP31とP32しか歌えませんでした。時間の使い方がヘタクソでした。ごめんなさい。しかしその2ページは美しくハモることができて良かったと思います。
歌詞についてはこの後で今日アップしますから、ぜひ読んでおいてください。
業務連絡です。中日新聞の社会部の松野記者(すごい美人です!!!!)が取材に来てくださいます。その日を21日(土)だとメールで連絡しましたが、日帰り合宿初日の20日(金)11時30分からに変更になりました。歌っている(練習している)ところを写真に撮ったりビデオに録ったりなさいます。新聞に載るからね。だから初日(20日)はちゃんと顔を洗って髪の毛にクシを入れて来てくださいネ。
なに?「おミャーが一番やらにゃァいかんことだろうが…」だと? わかったよゥ。先生もそうしますゥ。
合宿よろしくね。 -
「ちいさな法螺」「ぼくは雲雀」「わらべが丘」「ライオンとお茶を」Image
【ちいさな法螺】
一
ちいっちゃな魚に 化けたのさ
流れをおよいで 海にでた
すなやまは 波がどどん
やどかりこ 泣いていた
家主に 追いだされ
こぶしあげ わめいておった
おれは彼女を 水にいれ
ひれをふるわせ 踊ったもんだ
ほーんとだぜ
二
ちいっちゃな魚の おれだけど
月夜にゃうろこが 銀になる
みちしおの 浮かれ藻を
だてな鱶 咬んでいた
歯みがき わすれたと
長いつら しかめておった
おれは野郎を 寝かしつけ
あごを海月で こすったもんだ
ほーんとだぜ
小さな魚に化けた。化けたということは、もともとは人間だったということを意味すると思います。
では何のために化けたのでしょう。それは「やどかり」や「鱶(フカ)」を励ますためです。
「やどかり」も「鱶」も泣いています。悲しんでいます。
海の中の砂山、すなわち「やどかり」の生活の場に、大波がドドドーっと押し寄せて「やどかり」のすみかを破壊した。
生物学的に言えば、ヤドカリは入っているカラよりも自分の身体の方が大きくなってキュウクツになると、大きなカラに入っている他のヤドカリを追い出して、自分がその大きなカラを占領します。洗面器の中に2匹のヤドカリを飼っていれば、いつかは必ず見ることができる現象です。
大波のおかげで生活の場を破壊された「やどかり」たちは家を奪い合って、追いだされた「やどかり」はハダカになって泣いているのです。
土砂崩れがあって肉親を失い、今、今日、この瞬間にも避難所で絶望的な避難生活を送っておられる人々がいます。去年は大雨の洪水がありました。その被災者の方々は1年以上も避難生活を送っておられます。
その人たちは、こぶしを天に向けて運命を呪い、泣き叫び、わめいておられます。
みなさんは、そういう人々のために、何ができましたか?
先生は何もできませんでした。そして、これからも何もできないでしょう。
ですけれども、祈ることはできます。そして、ゴミを拾う、リサイクルに出す、1円玉募金をする、水を節約する、紙パック運動に協力するなど、小さな小さなことはできますし今もやっています。そのような小さな活動が、ものすごく多くの人々の手によって広められた時、大量のゴミが減り、大量の水や電気が節約され、そのために余らせることができたエネルギーをひいては被災者の方々の救援に役立てることができると信じています。
「彼女(やどかり)を水に入れ」とは、被災者の方々にお風呂をプレゼントする ということに他なりません。
そして「ひれをふるわせて踊る」とは、被災者の方々のために祈るということだと先生は思うのです。
「満ち潮の浮かれ藻を咬んでいた」とは、食べる物がない国の人々が草の根や木の皮を食べている ということだと思います。
「ハミガキを忘れた」のではなく「歯をみがくこともできない」、つまり歯を磨くほどの食べ物を食べることができない という意味だと思った時、みなさんは何を感じるでしょうか?
毎日毎日「歯を磨きなさい」と叱られている「空」のメンバーです。一度でも思ったことがありますか?2日も3日も何も食べていなくて、歯磨きなどは「天国の話」だという現実がある、そういう国々の人たちのことを。
そのような人々を励まそうとする歌が「ちいさな法螺」です。そのような人々を「水に入れ」「寝かしつける」ことができるように、今やれる小さな一歩を踏み出すのです。
そのように本気で思っている人でなければ「ほーんとだぜ」と歌う資格はない と先生は思うのです。
【ぼくは雲雀】
英語はにがてさ 数学きらいだ
(あたまは帽子をのせるため)
国語もさっぱり 社会はねむいよ
(あの子がふりむくはずがない)
それでも雲雀は歌じまん
(あがってさがってまたのぼる)
陽気な小節をぴりぴり震わせ
(空からスピーチ)
世界はおいらの
(世界はおまえの)
なかよし
(なかよし)
鉛筆なくても 暮らしにゃこまらぬ
(もうじきほんわか香りだす)
麦ばたけ
(麦ばたけ)
かげろういっぱい麦ばたけ
この詩はダイレクトに(直接に)心の中に入ってくる言葉ばかりなので、その言葉から受けるイメージをそのまま新実先生の音楽に乗せて歌えば楽しく生き生きとした表現が完成します。その意味では「読み取り」など必要がない…と言えるでしょう。
しかしですね、みんなの歌声を聴いて下さるお客さんに ( )が付いている言葉って何? とか、「麦畑」って何? とか聞かれて、「さぁ~?分かりません。分からないけど楽しい曲ですよね」としか答えられないとしたら、お客さんは「うん、たしかに楽しい音楽でしたよ」って答えてくださるでしょうけど、ちょっとサビシイ気がします。
読み取りなど必要ない…と前置きしつつ、敢えて「不要かもしれない」読み取りを書いてみます。
まず( )は何かという問題。
これは「僕」の心が乗り移った雲雀、つまり雲雀の姿になったもう一人の自分の「心の中の言葉」ではないか…と思います。
みんなはこんなことはありませんか?
友達や親や先生に何かを言われて「○○○○…」と答えた時、心の中でもう一人の自分が「本当は△△△△なんだけどね…」とつぶやく声が聞こえたことが。
あるいは何かをやろうとした時に「本当に私がやりたいことは○○なんだよなぁ」という自分の本心の声。
主人公の「僕」は成績は悪いけど、みんなのように歌が大好きなんです。みんなが成績が悪いっていう意味じゃないですよ!
それで、英語や数学のテストで5点とか7点とかの最悪の答案用紙が返ってきたんですね。「僕」は叫んだんですよ。
おれは英語は苦手なんだよぅ!数学なんか大っきらいだぁ!
国語も意味わからんし!社会になると眠くなるんだわぁ!
そしたら天から雲雀(僕の本心)の声が聞こえてきた。
いいじゃねぇか。頭っちゅうのは勉強のためにあるんじゃない。帽子を乗せられればOKですなんだよ。
勉強ばっかりやっていたら、お前の大好きな○○ちゃんにフラれるぜ。
以下、イメージを書きます。
おれは英語は苦手なんだよぅ!数学なんか大っきらいだぁ!
(いいじゃねぇか。頭っちゅうのは勉強のためにあるんじゃない。帽子を乗せられればOKですなんだよ。)
国語も意味わからんし!社会になると眠くなるんだわぁ!
(勉強ばっかりやっていたら、お前の大好きな○○ちゃんにフラれるぜ。)
おれは勉強はダメなんだけどヒバリみたいに歌は得意なんだよね。
(成績と同じでヒバリは空を上がったり下がったりするけどな。)
くだらんことは忘れて陽気に明るく歌おうかなぁ。
(そうさ。空の上からみんなに教えてやれ!)
世界はおいらのもんだぁ!
(そうさ。世界はおまえのものだ。)
おれは世界中の人と仲よくなるぞ~ぅ!
(そうさ。おまえは世界中の人たちとつながってるんだ。)
エンピツもノートも教科書も、命には関係ないんだ!!!
(そうさ。おまえの命はもうすぐ光って輝くぞ!)
命の畑だ。命の未来だ。
(おまえの命と未来の広がりだ。)
最後の1行に( )がありません。それは「僕」と「雲雀の声」とが完全にひとつになったことを意味します。
夢がいっぱいに広がる命の輝きだ!!!!!
だから「ぼくは雲雀」を歌う時、一番最後の(P53)「かげろういっぱい麦ばたけ」を思いっ切り心を込めた全力投球のフォルテにする必要があります。新実先生がfの記号を付けたのは、そのような願いがあったからだと思います。
「わらべが丘」
本当にステキな詩です。
まずは全部を書いてみます。
一
春の丘 青い服着る
あどけない 飾りひもする
麦ばたけ ほのかに萌え
なぞひとつ かおるその胸
かたつむり どこへいくやら
この世のそと たどるばかり
二
はこやなぎ 風のままゆれ
ほそくびに 赤い絹まく
しあわせは うつむき去る
ひつじぐさ ねむる岸べに
みずすまし 何を描くやら
こころのへり まわるばかり
まず、ポイントになる言葉をイメージします。
「青い服」とは「草花が新しい芽を出した、緑色になった」という意味でしょう。
つまり、「春の丘に麦の目がいっぱい出てきて、丘が緑色になった」ということになります。
「飾りひも」とは女の子が髪や着物に付けるきれいな紐のことですが、ここでは麦が咲かせた「花」を意味するでしょうね。
「なぞひとつ」は難しい。いろいろなイメージが有り得ます。
ここでは「私はなぜこの丘に芽を出したのか?」という麦の気持ち…とします。
そして「麦」と後に出てくる「かたつむり」を「私自身」とイメージすると、
「私はなぜこの世に生まれたのだろう?」という謎が私の胸の中にめぐり、
「私は何のために生き、そしてどこへ行くのだろう?」という自分自身への問い掛けになります。
そんな謎は答えが分かるはずはありません。でも、いつも「もう一人の私」が「私」に問い掛けます。
「こころのへり」つまり「心のすみっこ」を「まわるばかり」つまり「さまようだけ」とイメージできます。
「ハコヤナギ」の木の葉はとても小さくて軽いので、かすかなそよ風にもカサカサと音を立てます。だから別名をヤマナラシ(山鳴らし)と言います。
そして、若木の時には木の肌に赤い軟毛(柔らかい毛のように見える)が生えて木の幹がほんのりと赤い。つまり「若さ」「幼さ」の象徴です。
【注1】赤いハコヤナギは若い木だということです。
人間で言えば、赤いハコヤナギとは、まだ若いみなさん自身のことになります。
「ひつじぐさ」は「メェ~」と鳴く羊ではなく「未草」と書きます。蓮の花、スイレンの花のことです。
「未」とは子(ね)丑(うし)寅(とら)卯(う)辰(たつ)壬(み)午(うま)未(ひつじ)申(さる)酉(とり)戌(いぬ)亥(い)の中のヒツジ、つまりヒツジ年のヒツジです。蓮の花・スイレンの花のことです。
昔の時間の呼び方は「子の刻(ねのこく)」が夜中の0時、「丑の刻(うしのこく)」が午前2時、「寅の刻(とらのこく)」が午前4時を意味します。お化けやユーレイがでてくる時間を「草木も眠る丑三つ時」と言いますが、「草も木も寝ていてオバケが出てくる午前2時すぎ」が「草木も眠る丑三つ時」です。
「午の刻(うまのこく)」とはお昼の12時のこと。だから0時~12時までを「午の前」で「午前」、12時~24時までを「午の後」で「午後」と言うのは知ってますね?
【注2】みんなが5時間目の授業をしているころ(午後2時ごろ。つまり「未の刻」)に咲くので「未草」という名前になりました。
蓮の花・スイレンの花というのは仏様が座っている花です。奈良の大仏は蓮の花の上に座っていますね。つまり極楽浄土の華のことです。
その蓮の花が静かに眠る水辺って、どんなイメージなのかな。
ちなみに「ひつじぐさ」の花言葉は「純真」「清らかな心」「信仰」「遠ざかる愛」です。
そこにミズスマシ(私)が泳いでいて、不思議な模様を水面に描いています。
では一行ずつイメージしていきましょう。
春の丘 青い服着る
【春の丘に新しい芽を出す、つまり緑色の芽を出す麦は】
あどけない 飾りひもする
【新しい芽はかわいい(あどけない)花(飾りひも)を咲かせる】
麦ばたけ ほのかに萌え
【麦畑は静かに、そして大地いっぱいに花を咲かせるけれど】
なぞひとつ かおるその胸
【なぜ私は生まれたの?という謎を胸に秘めている】
かたつむり どこへいくやら
【私は(かたつむりは)ゆっくりと、どこへ行くのだろう】
この世のそと たどるばかり
【あの世へ向かう道を ゆっくりと歩むだけなのかなぁ】
はこやなぎ 風のままゆれ
【箱柳(別名ヤマナラシ)は神の意思・自然のまま(風のまま)に葉をそよがせて】
ほそくびに 赤い絹まく
【若い時には赤い首飾りを身につけるけど 注1】
しあわせは うつむき去る
【幸せは下を向いて去ってゆく】
ひつじぐさ ねむる岸べに
【未草(スイレンの花 注2)が静かに咲く水辺に】
みずすまし 何を描くやら
【ミズスマシは不思議な模様を水面に残して沈んでゆく】
こころのへり まわるばかり
【私の心のすみっこに 不思議なメッセージ(清らかな心)を残して】
【ライオンとお茶を】
お茶をライオンと飲みたいティラッタラッタラッタ
走るしまうまながめてティラッタラッタラッタ
いまの暮しむき遠い昔のこと
ぼやきたくないが歯医者には泣かされるね
ハゲタカに払う税金だって安くはない
たてがみをなでる風の道見えたりして
草原にちらほら星出るティラッタラッタラッタ
ばかにひもじい世の中愛してるから
ライオンとビスケット食べたいティラッタラッタラッタ
第23回定期演奏会のステージでお客様に話しましたが、ライオンといっしょにお茶を飲んだりビスケットを食べたりすることなどできるはずがありません。もし、そんなことをしようとしたら、あっという間にエサになってしまうでしょう。
そう。この詩の中のライオンは、アニメに出てくる人間の味方のライオン君ではなく、ぬいぐるみみたいなかわいいライオン君でもない、獰猛(どうもう)な猛獣(もうじゅう)です。
動物園に行って、そのライオンの檻の中に入って、「まぁ一杯やろうじゃねぇか」などと言う人は世界中に一人もいない。ライオンと人間とは「絶対に仲良く暮らすことはできない正反対の存在」なのです。
みなさんにも、そういう人がいるでしょう?「あいつだけは絶対に許せない」「顔も見たくない」「大っきらいだ」という人が。
「絶対に許せない」とまで激しくなくても、遠足や修学旅行で「できれば同じグループになりたくないなぁ」と思う子がいるはずです。
この詩の中のライオンとは、そういう「できれば同じグループになりたくないなぁ」と思う子のことです。
でも、あなたと同じように、その子も歯医者がキライなんです。あなたと同じように「星空がきれいだなぁ」って思うことがあるんです。
ライオンだって、きっとアフリカのサバンナで、夜に満天の星空を眺めて、「きれいだなぁ、ガルルルル」と思うことがあるに違いありません。
世界中にはミサイルだとか核兵器などを使って、お互いに脅かし合って(おどかしあって)対立している国があります。日本だって同じです。
でも、どんなに対立している国同士でも、人々が願っていることは同じです。「みんなが幸せになれると良いなぁ」って思っています。あなたと同じように。
この詩は、絶対に仲良くなれないライオンと人間だけれども思っていることは同じ だと言っています。
それは、絶対に仲良くなれない国と国の人々でも願っていることは同じ ということです。
そのことを理解すれば、ライオンと人間とが仲良くなることができるかもしれない。
と言うことは、対立し合っている国々だって、いつか仲良くなることができる。
谷川雁はそう思っています。詩人の願いを受け継ぎたいですね。
みんなの歌声を聴いたお客さんが
「なるほど。「空」の子はライオンとお茶を飲みたいと思っているんだな」
と思って帰るか、
「そうか。「空」の子は「みんなが幸せになれると良いなぁ」と思っているんだな」
と思って帰るか、そこが重要です。合唱の最も素晴らしいことは「メッセージを伝えることができる」ということです。
そのために、どのように歌うか。それぞれに考えておいてください。 -
「自転車でにげる」「ふたりで」「なぎさ道」「あしたうまれる」Image
【自転車でにげる】
やばい しばい オートバイ
ちんけなうそ ばれた
トゥートゥル トゥートゥル トゥートゥル トゥ
とんぼのはね くわえて
すたこらさと にげる
どいつも こいつも ぎぜんしゃ
おれは どっこい じてんしゃ
かんからかんの ちりりりりんさ
ちりりりりんの あかちょこべーさ
トゥートゥル トゥートゥル トゥ
この詩は「白いうた青いうた」の中ではわりと珍しい「韻(いん)を踏んでいる」詩です。
「韻を踏む」とは何かというと、母音(アイウエオ)が同じ言葉を続けることです。たとえば
「成功?」傾向に抵抗して得る栄光
自己表現 道玄坂で吐く暴言
これを全部ひらがな・カタカナで書くと
せいコウ? けいコウに ていコウして えるえいコウ
じこひょうゲン どうげんざかで はくぼうゲン
となり、カタカナで書いた部分「コウ」と「ゲン」が「韻を踏んでいる部分」です。ようするに「シャレ」の仲間であり、朗読・音読(つまり声に出して読む)する時に特殊な効果を生み出します。
「自転車でにげる」では
やバイ しバイ オートバイ
この「バイ」3連発が「韻」です。また
ぎぜんシャ じてんシャ ちりりりりんサ あかちょこべーサ
この「シャ」「シャ」「サ」「サ」も「韻」と言えるでしょう。
と言うことは「自転車でにげる」は「声に出して読む詩」と言えます。詩には「目で読む詩」もあり、黙って読んで頭の中でイメージすれば良いのですが、「自転車でにげる」は声に出して読んでこそ威力を発揮する詩だと言えますね。
そういうことを分かって歌うか、知らずに歌うかでは大きな差が生まれます。
さて、あとは詳しい説明は不要でしょう。令和3年5月8日に書いたソラノートを引用することにします。
まずい(やばい)芝居だったわねぇ。オートバイっていうのはウソなのよ。
最低な(ちんけな)ウソがバレちまったわ。
トゥートゥル トゥートゥル トゥートゥル トゥ
あたいは「空を飛べるプロペラまである最新式のオートバイ」だってウソついてたけど、あたいが持ってるのはトンボのハネだったのさ。
バレちまったようだねぇ。もうハネを持ってズラかる(逃げる)しかないわ。
人間なんて、どいつもこいつもウソつき(偽善者)なのよぅ。
あたいは自転車だったのさぁ。
ブォーンなんてカッコいい音で走るんじゃなくて、チリリリンって走る自転車だったのよぅ。
あかちょこべえのアッかんべー!!! おどろいたかい?
トゥートゥル トゥートゥル トゥートゥル トゥ ほいじゃぁアバよ。
こんなこと、よくありますよね。自分は本当は弱虫の泣き虫なのに、
あたいは美人でカッコイイ女よ。あたいについてきな。あんたらにウマい汁をたっぷりと吸わせてあげるからさぁ。さ、みんな。あたいについといで。
こんなことを学校で言っている子が「空」にもいるかもしれませんね(笑)。それが全部バレちゃった。そういう話です。
【ふたりで】
一
アルファ ベータ ゆうやけ こやけ
きみ ちょう ぼくは はちだ
ほら うで そら あし
くる くるくる くるくる くる
ふたりで くつを ぬいで
そぅれ ほぅれ にじみて おどれ
二
ガンマー デルタ はるの のはら
きみ りす ぼくは うさぎ
ほら うで そら あし
くる くるくる くるくる くる
ふたりで 地べた ふんで
そぅれ ほぅれ にじみて おどれ
この詩は平和な連想ゲームです。アルファは「α」、ベータは「β」、ガンマは「γ」、デルタは「δ」と書くギリシャ文字・ギリシャ語で、英語ではABCDにあたります。
あなたが日本語で「一(いち)」と言えば友達は「二(に)」と答えるでしょう。「37」などと答える友達はいない。1と言えばたいてい2が連想されます。同じように3と言えば4と返ってくるでしょう。
あなたが「ゆうやけ」と言えば友達は「こやけ」を連想するでしょう。「きみ」と言えば「ぼく」、「蝶」と言えば「蜂」でしょうね。
「ほら」なら「そら」、「うで」なら「あし」。
だから「アルファ」と言えば「ベータ」、「ガンマ」と言えば「デルタ」。
「春の」と言えば「秋の」かもしれないけど、「春の」なら「野原」もありありです。
つまり、切っても切れない言葉の組み合わせです。そこに「きみ」と「ぼく」が入る。
「きみ」と「ぼく」は切っても切れない言葉なのです。
「ぼく」は男の子を意味する言葉です。「きみ」は男の子にも女の子にもあてはまりますが、「きみ」に続く「蝶」「りす」というイメージから先生は「きみ」は女の子だと考えます。
男の子と女の子が(ロマンチックに言えば切っても切れない恋人同士が)くるくると踊っている。ほほえましいイメージです。
「空」の男子メンバーは、自分の腕の中でカワイイ女の子がくるくる回っている…と思ってください。
「空」の女子メンバーは、白馬に乗った王子様みたいな男の子の腕の中で自分がくるくると回っている…と思ってください。
いずれの男の子・女の子も、将来は結婚する相手をイメージしましょう。ステキですね。
この「くる くるくる くるくる くる」ですが、クルクル回って踊っている…という「クルクル」でしょうね。
しかし詩人は平仮名で「くるくる」と書きました。
ひょっとしたら「クルクル回る姿」ではなく、「来る来る」かもしれません。つまり
幸せがくる 微笑みがくる 希望がくる 未来がくる あなたとの幸せな日々がくる という「来る来る」かもしれません。
その場合、何が「やって来る」のか、その「何が」は自分でイメージを拡げる必要があります。
新実先生は「空」の先輩たちに
「言葉をハッキリ…とよく言いますが、それはハッキリと発音するのではなく、そこに情感が込められる…と言うことなのです」
とご指導くださいました。
くる くるくる くるくる くる
はモチロン踊っている時のクルクル回る様子 とイメージしても良いのですが、幸せがくる 微笑みがくる 希望がくる 未来がくる とイメージして歌うと何とも言えない「情感」が込められてきます。
何にもイメージしていない人の歌声は「クルクルパー」の「クルクル」に聞こえても不思議ではありません。でも、たとえば「幸せが来る」とイメージしている人の歌声には情感が入ります。この差は大きい。
ちなみに「くつをぬいで」は「自由になって」、「地べたふんで」は「ジャンプして」「レベルアップして」つまり「新しい世界へ踏み込んで」という意味だと先生はイメージしていますが、みなさんはどう思いますか?
「なぎさ道」については令和3年5月22日のソラノートをそのまま引用します。
「なぎさ道」は深い詩なので、早めに提示しておきます。詩の世界がみんなの中で発酵する(本当の共感になる)ためには少し時間がかかる詩だと思うからです。
【なぎさ道】
ぬれたわけ おしえましょ
うすい虹が消えるとき
通り雨 あびたのよ
髪が燃えているわ
古いうたのふしで
手さげ籠にあたる
しずくを受けながら
なぎさ道あるいた
声をあげ ゆれてたの
わすれなぐさの青
う~ん、これは完璧に少女の歌ですねぇ。少女の初恋が儚く(はかなく)消えていった情景です。
「ぬれたわけ」とは身体が濡れたのではなく、少女が「泣いたわけ」という意味です。
「うすい虹が」とは「あなたが」ということで、「通り雨」とは「少女の目からあふれた涙」です。
「髪が燃える」とは「髪が(涙で)濡れる」という意味。
ゆえにこうなります。
泣いたわけ おしえてあげるわ
あなたがいなくなってしまうとき
急に涙があふれてきたの
涙で髪が濡れるほどに
「古いうた」とは「あの時あなたといっしょに歌ったうた」です。「わすれなぐさ」の花言葉は「真実の愛」「私を忘れないで」という意味ですから
あの時あなたと歌ったメロディーで
手さげ籠に涙の音を立てている
その涙のしずくを受けながら
私は一人ぼっちでなぎさ道を歩いたの
声をあげて 心がゆれているのよ
「私を忘れないで」という気持ちが…
うおぉおー。ロマンティックな少女の心だぁ。嶋田先生には分からん世界だぜぇ。
と以前にソラノートにも書いたような気がします。しかし、その後に読み深めているうちに、ひょっとしたらこの詩は「平和への祈り」ではないか…と思い始めています。
「うすい虹」という言葉を「平和」と読んでみてください。
「通り雨」とは「いきなり飛んできた爆弾」で
「古いうた」とは「故郷に伝わる平和を求める歌」。
そうなると、この詩は以下のように読めます。
泣いたわけを おしえてあげるわ
あなたが戦死し、平和が消えてしまったから
人々も町も爆弾をあびて
娘の髪も身体も焼き尽くしてしまったから
平和を伝える昔の歌のメロディーで
手さげ籠だけが歌っている
その(手さげ籠の)涙を受けて
私は平和を求めて歩き続ける
人々の声がゆらめくのが聞こえるわ
真実の愛って何?という問い掛け(青)が聞こえるわ
うぅ。胸がふさがるような悲しい世界です。
しかし小学生でも知っています。今この瞬間も、世界のどこかで、町が焼かれ爆弾の雨が降っていることを。
そのニュースを「自分には関係ない」と思っていて良いのだろうか。
先生には、何一つできることはないのですけれども…
みんなも考えてみてください。
アインシュタインは言っています。
「考えろ 考えることが始まりだ」
【あしたうまれる】
一
ねわらの麦に 月がさしこんで
あしたうまれる こうまに語る
おまえのひずめが 丈夫になったら
アジアのはてまで ふたりでゆこう
柵のりこえて 魔物ゆらゆら
ふくろう夜まわり ほぅほとないてる
二
枯れたはなびら においおぼえろ
しろいつめくさ まずてはじめに
おまえのたてがみ よじれる赤毛
異国でゆれたら わたしが照らす
たにしころころ うらやむばかり
十五夜先生 ふらりかくれる
この詩はバラードです。つまり「物語」。お話になっている詩…という意味ですね。
場所は馬小屋。馬小屋は人間が馬を飼うために作った物で、つまり人間が馬を閉じ込めておく場所です。
その馬小屋の寝藁(ねわら)にお母さん馬が横たわっています。おなかが大きくて、明日にでも子馬が生まれそうです。
そのお母さん馬の大きなおなかを月がやさしく照らします。そして、明日生まれる予定の(運命の)子馬に、お月様が語り掛けます。
「おまえが生まれたら、そしておまえのひずめが硬くて丈夫になったら、この馬小屋を脱出するのだ。
ここに残ってはいけない。馬小屋にいるかぎり、おまえは人間の奴隷(どれい)なのだ。アジアの果てまで逃げるのだ。」
生まれた子馬は馬小屋の柵を乗り越えました。でも、外の世界には魔物や妖怪が子馬の命を狙っています。
フクロウは子馬を守ろうと夜中に見張っています。「ほぅほ」という不気味な鳴き声が魔物から子馬を守ります。
月の光は子馬を励まし続けます。「枯れた花びらは食料だ。そのにおいを覚えるのだ。」
「ほら、そこに咲いているのがツメクサだ。おいしいぞ。まず最初にそのにおいを覚えるのだ。」
さらに月の光は続けます。「おまえの鬣(たてがみ)は美しい赤毛だ。自由の象徴だ。」
「おまえの鬣が遠い遠い国で揺らめく時、私の光で照らしてあげよう。」
大地を走る子馬をタニシが見守ります。「子馬は走れるからうらやましいなぁ。」
月は満月になると、自分の光で子馬が魔物に見つからないように、雲の間に自分の姿を隠すのでした。
こんな物語になるかな。詩に合わせて12行で書いてみました。
みんなもぜひ、12行で「自分の言葉」にしてみてください。月の光のセリフは詩の中ではカンタンに書かれているだけです。くわしいセリフは全部、嶋田先生の創作です。ということは、みんなだって月の光のセリフをもっともっとロマンチックに作ることができるはずです。また、月の光の呼びかけに対して子馬が答えたセリフなども考えてみると良いと思います。
新実先生はメロディーに歌詞を乗せながら、「ルラルラ」とか「ルルル」などのヴォーカリーゼを加えておられます。
この「ルラルラ」とか「ルルル」は、月の光の言葉だと嶋田先生は感じます。つまり人間には分からない言葉。でも意味がある。子馬の耳にしか届かない月の光の言葉。
だから、ただ何となく「ルルル」って歌うのではなく、本気になって月の光の言葉を語るつもりで「ルルル」を響かせなくてはならない。
そのためにも、詩の中の月の光のセリフを自分なりにロマンチックに膨らませておくことは、ものすごく大切なことだと思います。 -
14曲を歌いました♪
【令和3年8月7日(土)】
今日も多くのメンバーの協力のおかげで非常に上手くいった練習でした。これまでに歌った曲を最初に1回ずつ歌う…という方法です。でも曲が増えてきました。
「薔薇のゆくえ」「忘れ雪」「火の粉「なぎさ道」「とげのささやき」「われもこう」「就職」「卒業」ときて「感傷的な唄」「ジョギングの唄」ときて「自転車でにげる」「ふたりで」の12曲になりました。
少なくとも今日のメンバーは全員、この12曲を1回は経験したことになります。
来週は2曲増えて14曲を最初に1回ずつ歌います。そうして今日の欠席メンバーをカバーする。この繰り返しです。
しかしながら、さすがに「ジョギングの唄」はムズカシかったね。先週に初めて歌って、先週の欠席メンバーは今日が初めてで、それで上手く歌おうなんて、そりゃあ神業(カミワザ)って言うもんだ。
だからポイントになる部分を何度か繰り返して練習しました。どの部分かと言うとP24下の段~P25です。
ここはソプラノとメゾソプラノで3声のハーモニーを作り、アルトがメロディーを歌うという役割分担です。ソプラノ・メゾソプラノのハーモニーは音の高さが違うだけで同じメロディーの重なりです。「かからぬそうな」も同じです。リズムがシャープなので(するどいので)早く自分の中に沁み込ませてください。
次のポイントはP28上の段の「こうなのだ」の順番スタートです。ここは先生が指揮をチャンとやれば大丈夫だと思います。
3番目のポイントはその「こうなのだ」からP29の「ふんで」まで2声なのですが「いくのだ」で突如として3声になり、「ahー」から再び2声にもどる…ということ。
2声になったり3声になったり4声になったり…ということは先週も書きましたが、特に2声になる部分がどこかを確認しておいてください。つまりメゾソプラノが2つに分かれているんだけれども、実はメゾ上はソプラノと同じになりメゾ下はアルトと同じになる部分です。
今日のメンバーはすごく集中してこの説明を聞いてくれて、すぐに問題が解決したのですけれども、でも来週になったら忘れることもあるし、毎回毎回の練習で「ここは実は2声だよ」「ここから3声に分かれるよ」と繰り返していたら時間のムダだもんね。確認をお願いします(笑)。
その点、「自転車でにげる」と「ふたりで」は最初から最後まで3声で書かれているのでカンタンです。いや、ホントはカンタンじゃないんだけれども、楽譜が見やすくて分かりやすい。それに新実先生独特の美しいメロディーが主体ですから、美しくハモりました。
でも、さすがに12曲もあって、しかも「ジョギングの唄」を少しくわしく練習し直したので、ここまでで11時となり、休憩となりました。
休憩中は何だかしらないけれども、先生の背中をつついてくるメンバーがいるので、先生もテキトーに反撃しました。
まあ「空」のメンバーは上品な子ばっかりなので、背中をつついてくるくらいでカワイイもんです。
これが宝南小学校や千種小学校で担任をやっていたころは、「タマでっけ」とか言いながらまともにキン◯マを蹴ってくる女の子や、「ジニナルキック!!」とか何とか言いながら先生の尻の穴を蹴ってくる男の子がいて、そういう子たちと戦いまくって生き残ってきた嶋田先生は平気です。
まぁ、そういう悪い子ちゃんに対する嶋田先生の反撃もソートーなもので、プールで甲羅干しをしている時にその悪い子ちゃんの背中の上で踏ん張って、私の海パンからポタポタと滴り落ちる(シタタリおちる)水を悪い子ちゃんの背中に落してあげたりしてました。そしたら「うぉ~!!」とか叫んでプールの中に飛び込んで背中を洗ってるもんだからゲラゲラ笑ってやりましたよ。
おっと、また脱線しちまったな。
休憩の後はですね、よっぽど「天使」を練習しようかなぁと思ったんですけれども、鍵盤ハーモニカが1本しかなかったので、3声が基本で時々4声に分かれる「天使」は来週に回し、曲集「ぼくは雲雀」の「なぎさ道」と「あしたうまれる」を歌いました。
「なぎさ道」は曲集「われもこう」と曲集「ぼくは雲雀」の両方に載っていて、しかもアレンジが違います。どちらもステキなアレンジで、ビミョーに色合いが違う。「忘れな草の青」をライトブルーで塗るかセルリアンブルーで塗るか、どちらもとっても美しく、どっちが好きかと言われてもカンタンには選べないですね。
曲集「ぼくは雲雀」の「なぎさ道」の特徴は、P22からメゾソプラノがメロディーとなって、ソプラノとアルトでリズムを刻む音型です。それからP26の下の段からアルトとソプラノで交互にメロディーになる部分。1オクターブ飛ぶので特にソプラノは高い声が乱暴にならないように注意しましょう。
でもサスガです。すぐに歌えるようになりました。
「あしたうまれる」は詩がすごくステキ。これはバラード(物語の歌)です。主人公は子馬とお月さま。主人公がどんな気持ちなのか考えてあげてください。
それにしてもP34からが素晴らしく美しい世界です。メゾソプラノが「ルラルラ」と歌った後でソプラノがメロディーを歌うんですけれども、その時のメゾソプラノとアルトの「ルラルラ」の掛け合いが素晴らしく美しい。この世のものとは思われない音楽です。味わい深いですねぇ。みなさんは歌ってみてどう思いましたか?
と言うわけで今日は2曲増えて合計14曲になりました。来週はこの14曲を1回通して歌ってから曲集「ぼくは雲雀」の続きをやるか、それとも曲集「やさしい魚」の「天使」「やさしい魚」をやるか、それは集まったメンバーの顔触れを見てから考えます。
今日もステキなご協力、ありがとうございました。 -
集中して取り組みチャンスを生かす
【令和3年7月31日(土)】
今日は非常に上手くいった練習でした。これまでに歌った曲を最初に1回ずつ歌う…という方法です。その曲は
「薔薇のゆくえ」「忘れ雪」「火の粉「なぎさ道」「とげのささやき」「われもこう」「就職」「卒業」ときて「感傷的な唄」の9曲。
それぞれの曲を練習した時に誰がいなかったか、そんなことは記録していないし、先生は頭が悪いから覚えてもいません。
しかし、少なくとも今日のメンバーは全員、この9曲を1回は経験したことになります。
来週は3曲増えて12曲を最初に1回ずつ歌います。そうして今日の欠席メンバーをカバーする。この繰り返しです。
この9曲、1回しか歌わなかったのですけれども、それぞれの曲が持つ独特の響きがよく出ていて、なかなかのレベルでした。何度か拍手したのはウソではありません。
だいたい嶋田先生は、担任だった時にほとんどホメたことがありません。わざとホメるのがキライなんです。本当は大したことがないのにオオゲサにホメる。これはウソです。だから本当に感心した時にしかホメませんでした。
クラスの子も分かっていて、メッタにホメない嶋田先生が「うぉ~、いいねぇ」なんて言った時には本当に嬉しそうでした。
まだまだ荒削りな部分はありますが、それは当たり前です。3回か4回しか歌っていない曲もあるのですから。メンバーによっては今日初めて歌った…なんて子もいるわけです。それでもソコソコ響く。これは素晴らしいことでした。
このような練習の組み立ては、テキトウに考えたわけではありません。自分の経験に基づいたものです。
先生が東海メールクワイアーに入団したのは1984年2月9日(木)でした。入団した時は全員が歌えている曲を自分だけが知らない…という状態です。
先生にとっての初めての本番はその2ヶ月後、NHKのスタジオでFM放送の録音でした。曲は大中先生の「夜会の一隅」という組曲6曲です。入団から本番まで「夜会の一隅」を練習したのは3回くらいしかありませんでした。他のメンバーはすでに何度も歌っているので、シャカリキになって練習し直す必要もなかったのでしょう。
3回か4回の練習で嶋田先生が「夜会の一隅」を歌えるようになったのは、周りのメンバーの歌声をよく聴いて、それに合わせてメロディーやハーモニーを覚えていったからです。入団したばかりの嶋田先生のために最初から曲を教えようなんていう練習はありませんでした。先生も、自分だけのためにそんな練習をしてほしいとは思わなかったし、周りのメンバーの表現を聴きながら(ただし、ものすごく集中して聴いていました)歌っていれば、「夜会の一隅」6曲を歌えるようになるために3回のチャンスがあれば十分でした。
この嶋田先生の経験が、まさしく今日の「空」のメンバーに再現されていました。これが今日の練習が非常に上手くいったという証言になります。
もちろん大学を卒業した時の嶋田先生と、「空」の小学生中学生が同じレベルだとは言いません。小学生中学生には不安もあるだろうし、今日の練習一発で9曲を完全に歌えるようになったなどとは思いません。
しかし、やっていることは同じです。
何が同じなのかと言うと、「集中して聴きながら歌い、少ないチャンスを生かす」ということです。
「集中して取り組み、少ないチャンスを生かす」、これを学校の授業や勉強に生かしてみたまえ。絶対に成績が上がりますよ。成績が悪いのは頭が悪いからではない。病気なら仕方がありませんが頭というものには生まれた時には差はありません。成績に差がつくのは「集中して取り組み、少ないチャンスを生かす」か「ダラダラと取り組み、チャンスを何度も逃す」か、そこの差です。
今日の練習は非常に上手くいきました。嬉しかったです。
9曲を通した後はメインの練習です。まずは「ジョギングの唄」です。
この曲のポイントは、分かりやすくカンタンに言えば「乱暴に歌う」ということです。ロマンチックに言えば「生きてる毎日がお祭りなんだ」と思って歌う。このセリフは新実先生の言葉です。お祭りで太鼓のリズムに乗って朝から晩まで踊りまくる。そのようなエネルギッシュな躍動感が「ジョギングの唄」の命です。
注意点を記しておきます。
◯P19からP20上の段までソプラノの休止がありますが、ここまでは全員で歌えるようにしておきましょう。
◯P20下の段「というやつだ」は4声に分かれているように見えますが、メゾソプラノ上はソプラノと同じ、メゾソプラノ下はアルトと同じ。つまり2声に分かれるだけです。
◯P21からP22上の段の「わっしょい」までは3声でハモります。
◯P22の「lun lu lu」3回は上の音が「ドドド」、下の音が「ラシシ」です。つまり2部に分かれているだけ。
◯P22下の段の「人は」は今は全員で「人は人は人はより良い明日を」と歌えるようにしておきます。ただし本番では楽譜通りに分かれて歌う可能性が高いです。以下「いじでも」まではユニゾン(1声)です。
◯P23下の段の1小節目の「いじでも」は突如として3声。
◯次のP23下の段の2小節目の「思いこん」は突如としてユニゾン(1声)。
◯次の「でー」からP24上の段の「わっしょい」までは2声です。4声ではありません。
◯P24下の段からP25は楽譜通りの4声で歌います。アルトがメロディーだということを忘れないように。
◯P26上の段はユニゾンです。下の段は2声です。確認してください。
◯P27の最後からP28の「生き方は」まではユニゾンです。次の「こうなのだ」は3声です。
◯P28の「たしかめながら」からP29の「ふんで」までは2声です。ここも確認です。
◯次の「いくのだー」は3声。そして「ahー」から「わっしょい」までは2声です。
つまり、ユニゾンになったり2声になったり3声になったり、時には4声になって、メゾソプラノが忙しいです。
最後の「わっしょい」は音がありません。シャウト(叫び)です。「空」はシャウトが苦手です。今日は笑えるような上品なカワイくてスマートでロマンティックなシャウト(叫び)でした。よろしくお願いいたします(笑)。
ちなみに「常套句」とは「ふだん使っている当たり前の言葉」という意味です。
詩全体の意味は…。また改めて別に書きます。その後の20分で曲集「ぼくは雲雀」の「自転車でにげる」と「ふたりで」を完了させました。ものすごい効率です。
ゆえに今日は3曲が完了。来週は最初に12曲を1回ずつ歌います。
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就職 卒業 Image
【就職】
よあけに うらないして
いなかのまち でていく
ナイフの 柄にほる文字
イニシアルは でたらめ
あすから ちがうひと
嘘でも はじめてみる
砂漠の 木になりたい
砂だらけで 生きたい
声なき かたつむり
しらない 地図ひろげ
空とぶ
つばさは なくとも
まずしい こどものまま
はたらくこと きめたよ
さよなら
朝やけしる 水鳥くん
「就職」とは「仕事に就く(つく)」ということ。つまりサラリーマンになるか医者になるか学校の先生になるか、はたまたデザイナーになるか作曲家になるか野球選手になるか。あなたの人生を決める大切なターニングポイント(分かれ道)です。
嶋田先生のように高校生の時に「小学校の先生になりたい」と思って迷うことなく「先生」への道を歩んだのは、非常に幸せなことだったと思います。あるいは大中先生のように「あなたは作曲家になりなさい」という神の声が聞こえた…などという人は幸せです。
多くの場合、迷います。自分は何に向いているのか、何ができるのか、そもそも自分とは何者なのか。そのような「迷い」は人生を送る上で必要なことであり、避けて通ることはできません。でも、迷うことは「不幸」ではありません。生きるために必要なことです。
嶋田先生だって、高校生になる前は迷いました。大切な友達のお父さんがガンで亡くなった時には本気で「医者になろう」と思ったこともあります。
でも挫折(ざせつ)した。「自分には無理だ」と思いました。と言うよりも「自分には向いていない」ということが分かりました。
そのような「挫折」なら良いのですが、もし嶋田先生が教員採用試験(先生になるためのテスト)に不合格だったら、すごく悲しい「挫折」を味わったことでしょう。そして「先生」ではない「違う仕事」に就き、違う人生を歩んでいたかもしれません。そこで不合格だったら、それは不幸せなことなのでしょうか?答えはNOです。
もしかしたら、その「違う仕事」に就いて今とは違う人生を歩んだ方が、今よりも有名な大金持ちになっていたかもしれない。これは神様だけが知っていることで、何が「その人にとって最高の幸せであるか」は誰にも永久に分からないのです。だから生きることって面白いし、だから就職の前には全ての人が悩みます。
みんなのお父さんやお母さんたちも、このターニングポイントを通ってきたはずです。
ここまで読んできれたメンバーは、もう自分なりのイメージができたと言えます。
夜ずっと寝ないで (眠れないほど)考えて
故郷を(父さん母さんの家を) 出ていくボク
持ち物すべてに これから書く名前は
今までのボクではない 新しいボク
明日から 自分の力で生きるボク
いつまでも父さん母さんに甘えてはいられない
世の中の 役に立つ人になりたい
砂だらけ泥まみれになっても 役に立って生きるんだ
不安だ…という声を押し殺して ボクは
知らない世界に 飛び込んでゆくんだ
カッコよくテレビに出たりして
有名になんか ならなくても良い
何も知らない 純粋な心のまま
勇気を出して働くんだ そう決めたんだ
さようなら
父さん母さんの愛に守られていた ボク
「就職」は、新しい自分になることへの不安に打ち克とうとする「勇気の讃歌」と言えるでしょう。
【卒業】
紙ひこうき 芝生で とばしたら
折りたたむ かなしみが ひらいた
この 白さは いつまで のこるのか
天山北路の すなふる はなみずき
まどがらすに さよなら 書いたゆび
友おくると 靴ひも 直したら
いしみちに ゆうぐれが あふれた
なぜ けものの わかさは つらいのか
ボッティチェルリ うまれ日 しらべてた
水たたえる あの目を わすれない
この詩は小学生や中学生のメンバーには申し訳ないけれど、高校生の卒業の歌です。
でも、詩の世界は高校生だけの話ではなく、小学校や中学校やもちろん幼稚園・保育園の卒業を経験してきた子なら共有できる世界です。
自分が学び、そして遊んだ校舎。友達と語り合い、いっしょに笑いいっしょに泣いた校庭。そしてお世話になった先生。
いったん卒業・卒園したら、もう自分はそこにもどることはできないのです。もちろん「こんにちは~。あそびにきましたぁ」とか言って校庭に入り先生に会いに行くことはできるでしょう。しかし、その時の自分はもう「そこに通った自分」ではなく、「新しく生まれ変わった自分」なのです。
新しく生まれ変わった自分…。人間は何度か、そのような「大切な時」を迎えます。これは全ての人間にやってくる「時」であり、通過しないで済ますことはできません。
小学生になる、中学生へと進学する、高校生へと生まれ変わる、そして社会人として自立する、これ全て「卒業」であり、新しく生まれ変わる…ということです。それは嬉しいこと、晴れがましいことであると同時に、「それまでの自分」と訣別(けつべつ)する辛い(つらい)瞬間でもあります。
ここまでを読んで「そうだね」という共感が心にあるのなら、あなたは以下のソラノートを読む必要はありません。立派に「自分のイメージ」を持っています。自分の心の中にある校舎や先生や友達のことを思い浮かべて歌えば良いと思います。
「卒業」は、53曲ある「白いうた 青いうた」の中でも最もポピュラーな(有名な)曲で、いろいろなコンサートや学校の校内音楽祭などでも歌われています。
おそらくはメロディーやハーモニーの魅力もさることながら、詩の世界が誰にでも共感できるものであり、今から嶋田先生が書くような「文学的な読み取り」や「言葉の解釈」などが不要だからだと思います。
ですが書いておきます。なぜならば、みんなはもう「自分なりのイメージ」を十分に膨らませているでしょうが、たとえば1番の4行目「天山北路の すなふる はなみずき」とか2番の4行目「ボッティチェルリ 生まれ日 しらべてた」などの言葉について「どんなイメージ?」と聞かれても、答えられる人は少ないだろうと思うからです。「さぁ…? 天山北路とかボッティチェルリとか、よく分からんけど。ちょっとセンチメンタルな感じだね。それで良いんじゃない?」くらいの答えしか持っていない演奏になってしまっては、それはサミシイことです。
1番について
天山北路 → 中国大陸の北西に天山山脈があります。東ヨーロッパと中国の都を結ぶシルクロードは天山山脈の北側を通る天山北路と天山山脈の南側を通る天山南路があり、ともに栄えました。ここは砂漠の真ん中で、そこから細かい砂が風に巻き上がり、なんと日本にまで届いて降ってきます。「黄砂」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。
すなふる → 黄砂が西風にのって中国大陸から日本列島まで運ばれて降ってくる現象のこと
はなみずき → 花言葉は「永続性」「私の思いを受けてください」 自分自身とイメージします。
紙ひこうき → 卒業するよ旅立つよという気持ち
芝生 → 自分が過ごした教室・校庭
2番に入ります。
靴ひもを直す → 追いかけて走ろうとする
いしみちに → 自分の進むべき道に
ゆうぐれがあふれる → 友達の姿が見えなくなる 進むべき道が自分とは違うんだと分かる
けもの → 若い人 つまり自分
ボッティチェルリ → 15世紀のイタリア・フィレンツェの画家。歴史に残る作品を残している。ボッティチェルリの誕生日は3月1日。少し前まで高等学校の卒業式は3月1日が定番だった。今でも多くの高校は3月1日かその前後を卒業式にすることが多い。
水たたえる → 涙をうかべる
卒業します…と 校庭に 告げた時
心の中にしまいこんでいた かなしみが ひらいた
この 自分の素直な気持ちは いつまで のこるのか
遠くて知らない世界(自分の未来)から 飛んできたメッセージを 私は受け止める
そして窓ガラスに さよなら(ありがとう)と 書いた私の思いを受け止めてください
一緒に行こうよと友達を 追いかけていこうとしたら
あの子の進むべき道と 自分の進むべき道は 違うんだ…と分かった
なぜ 僕たちの 若い命には 別れるつらさがあるのだろう
3月1日まで残り何日しかない と指折り数えていた
涙があふれた あの子の目を わすれないで生きていこう -
なぎさ道 とげのささやき われもこう Image
【なぎさ道】 ※ 5月22日ソラノート 再掲
ぬれたわけ おしえましょ
うすい虹が消えるとき
通り雨 あびたのよ
髪が燃えているわ
古いうたのふしで
手さげ籠にあたる
しずくを受けながら
なぎさ道あるいた
声をあげ ゆれてたの
わすれなぐさの青
う~ん、これは完璧に少女の歌ですねぇ。少女の初恋が儚く(はかなく)消えていった情景です。
「ぬれたわけ」とは身体が濡れたのではなく、少女が「泣いたわけ」という意味です。
「うすい虹が」とは「あなたが」ということで、「通り雨」とは「少女の目からあふれた涙」です。
「髪が燃える」とは「髪が(涙で)濡れる」という意味。
ゆえにこうなります。
泣いたわけ おしえてあげるわ
あなたがいなくなってしまうとき
急に涙があふれてきたの
涙で髪が濡れるほどに
「古いうた」とは「あの時あなたといっしょに歌ったうた」です。「わすれなぐさ」の花言葉は「真実の愛」「私を忘れないで」という意味ですから
あの時あなたと歌ったメロディーで
手さげ籠に涙の音を立てている
その涙のしずくを受けながら
私は一人ぼっちでなぎさ道を歩いたの
声をあげて 心がゆれているのよ
「私を忘れないで」という気持ちが…
うおぉおー。ロマンティックな少女の心だぁ。嶋田先生には分からん世界だぜぇ。
と以前にソラノートにも書いたような気がします。しかし、その後に読み深めているうちに、ひょっとしたらこの詩は「平和への祈り」ではないか…と思い始めています。
「うすい虹」という言葉を「平和」と読んでみてください。
「通り雨」とは「いきなり飛んできた爆弾」で
「古いうた」とは「故郷に伝わる平和を求める歌」。
そうなると、この詩は以下のように読めます。
泣いたわけを おしえてあげるわ
あなたが戦死し、平和が消えてしまったから
人々も町も爆弾をあびて
娘の髪も身体も焼き尽くしてしまったから
平和を伝える昔の歌のメロディーで
手さげ籠だけが歌っている
その(手さげ籠の)涙を受けて
私は平和を求めて歩き続ける
人々の声がゆらめくのが聞こえるわ
真実の愛って何?という問い掛け(青)が聞こえるわ
うぅ。胸がふさがるような悲しい世界です。
しかし小学生でも知っています。今この瞬間も、世界のどこかで、町が焼かれ爆弾の雨が降っていることを。
そのニュースを「自分には関係ない」と思っていて良いのだろうか。先生には、何一つできることはないのですけれども…
【とげのささやき】
くれないの薔薇の とげの青さよ
風しずかな指を つらぬく一針
まこと恋ならば 海の色に似る
はるか 沖に おどるへさきの
かたちくずさぬと 泣きつつあゆめ
青いとげささやく 昼のたまゆら
まずは基本情報です。
くれない → 紅。すごくきれいな赤のこと。
へさき → 舳先。船の一番前のとがった部分。
たまゆら → 「玉響」と書きます。勾玉(まがたま)という宝物があります。大昔(奈良時代・飛鳥時代・もっと前)に作られた宝石のこと。神に捧げられたり、昔の王(今の天皇の祖先)を飾ったりしました。ネックレス(首飾り)にその勾玉が使われ、勾玉どうしが風にゆれて触れ合って立てる微かな(かすかな)音のことを「玉響」と呼びます。さぞかし美しく響く音だったことでしょう。その音から「かすかな」「ほんの一瞬」という意味にも使われます。
そしてイメージとして、
くれない → やさしく美しい赤。やさしく美しくありたいと思う私の心…とイメージします。
薔薇 → 自分自身としか考えられません。なぜなら「恋をしている」からです。バラは恋などしない。だからこの「薔薇」は恋をする人間です。
とげ → 人間が持っている「毒」と言うと激しすぎるかな。やわらかく考えても「人の心の中の激しさ」「厳しさ」とイメージできます。
指 → もちろん指のことですが「私の心」あるいは「私の身体」と考えられます。
はるか沖に おどる舳先 → 遠くに見える私自身の姿…と考えます。
そう考えると
美しく赤い(はずの)私の心には (なぜか)激しい心の冷たい色(青)がある
おだやかな私の心に(身体に) 激痛を生む針のような青さがある(なぜなのだろう)
本当の恋は 海の深い色に似るけど、その色は青だ!
遠くかすかに見える私自身の姿の
本当は持っているはずの赤のやさしさを無くさないように 泣きながら生きる
青い心(激しさ・厳しさ・悪魔の心?かも)が私の中でささやく 玉響のような微かな声で
こんなイメージになるかな…。
もっと簡単に「天使」とか「悪魔」とかの激しい言葉を使うと
天使みたいなりたいと思う私の 悪魔の心よ
やさしい心を 突き刺す針のような心だ
あの人を好きだと思うのは 悪魔の心なのか?
遠くに小さく見える 私の中の天使
その天使の姿を無くしたくないと 泣きながら生きる
私の中で悪魔の心がささやく 昼の玉響のように
もっともっと簡単に考えると、嶋田先生のような人間は、
正直に生きたいと思っても ズルい自分がいる
正直な気持ちを殺そうとする 悪い自分がいる
でも、自分は正直でありたい。そう思うと涙が出そうだよ
正直でいようと決心しても 悪い自分の心は消えない
消すことができないよぅ くそっ 消えないよぅ(涙)
そんなふうに自分を責めるのです。白状します。先生の心の中にも悪魔はいます。そして、その悪魔を消そうとしている自分がいます。
「とげのささやき」とは「悪魔のささやき」と言い換えることができるかもしれません。
【われもこう】
あの色だけならば 暗すぎる
すすきの道をふさぐ われもこう
風のままゆれ 霧のたびぬれ
さびついた とびらをつくる毬
にわかに 秋の日
かがやく 深いくれない
遠くでうろこ雲 たずねてる
エジプトそだちの 紅を見たか
この詩は「エジプトそだちの紅」をどうイメージするか、それによって大きくイメージの絵が変わります。みなさんはどちらが好きですか?
「エジプトそだちの紅」を考える前に、その他のキーワードを考えていきましょう。
われもこう → ちょっと暗い、寂しげな赤い色の花。花は毬のように丸くなります。花言葉は「変化」「あこがれ」「明日への期待」
すすき → みんなが良く知っている草花です。花言葉は「元気」「活力」「生命力」「心が通じる」
さびついたとびら → 「さびついた」という言葉から、「過去を振り返る扉」とイメージします。
ですから前半は
あの(われもこうの赤い)色だけならば 暗すぎる(さびしすぎる)
元気や生命力への道を閉ざす われもこうの赤さは(暗すぎる)
風が吹けば心がゆらめき 霧になれば涙にくれて
昔のことばかり思い出している毬(われもこう)
そして
うろこ雲たずねてる → 未来 あるいは 自分に無い新しい力 を探している
とイメージすると
にわかに(とつぜん)秋の太陽の光がさしてきて
光の中で輝いた 深い紅(われもこう)は
未来を探し、自分に無い新しい力を求めている
さびしい心の「われもこう」が太陽の光をあびて輝いた。未来を探し立ち向かう心を持った…というイメージです。
最後の1行がロマンティックです。「エジプトそだちの紅」とは何でしょう?
【イメージA】
エジプトの太陽の神「ラー」ではないでしょうか。エジプトの最高の神様です。太陽が輝く紅色。5行目の「とつぜんさしてきた秋の太陽」とも結びつきます。
太陽の神ラーの力によって輝きを取り戻した「われもこう」…というイメージです。
【イメージB】
エジプト原産のサフラワー、つまり「べにばな」ではないでしょうか。サフラワー油・紅花油はみなさんの家の台所にもあるはずですがそれは関係ない。「われもこう」と同じような丸い花を咲かせますが、咲き始めは黄色。そしてだんだんと紅色へと変化していきます。花言葉は「夢中」「情熱」「情熱的な恋」「愛する人」など。
さびしかった「われもこう」が秋の太陽に輝いてサフラワーのような「情熱」つまり新しい力を取り戻した…というイメージです。
整理するとこうなります。
【イメージA】
あの(われもこうの赤い)色だけならば 暗すぎる(さびしすぎる)
元気や生命力への道を閉ざす われもこうの赤さは(暗すぎる)
風が吹けば心がゆらめき 霧になれば涙にくれて
昔のことばかり思い出している毬(われもこう)
にわかに(とつぜん)秋の太陽の(ラーの)光がさしてきて
光の中で輝いた 深い紅(われもこう)は
未来を探し、自分に無い新しい力を求めている
エジプトの太陽神ラーの姿を見たのだろう
【イメージB】
あの(われもこうの赤い)色だけならば 暗すぎる(さびしすぎる)
元気や生命力への道を閉ざす われもこうの赤さは(暗すぎる)
風が吹けば心がゆらめき 霧になれば涙にくれて
昔のことばかり思い出している毬(われもこう)
にわかに(とつぜん)秋の太陽の光がさしてきて
光の中で輝いた 深い紅(われもこう)は
未来を探し、自分に無い新しい力を求めている
エジプト育ちのサフラワーのような情熱を取り戻して
みなさんは、どちらが好きですか?
最後に新実先生が「空」の先輩たちに教えてくださった言葉(嶋田先生の楽譜にメモが残っています)を記しておきます。
「いろいろなふうに読むことができるのが詩なんです。
自由にとらえて良い。
100人いれば100とおりの感じ方があって良いのです」