SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


「自転車でにげる」「ふたりで」「なぎさ道」「あしたうまれる」Image

【自転車でにげる】

やばい しばい オートバイ
ちんけなうそ ばれた
トゥートゥル トゥートゥル トゥートゥル トゥ
とんぼのはね くわえて
すたこらさと にげる
どいつも こいつも ぎぜんしゃ
おれは どっこい じてんしゃ
かんからかんの ちりりりりんさ
ちりりりりんの あかちょこべーさ
トゥートゥル トゥートゥル トゥ

この詩は「白いうた青いうた」の中ではわりと珍しい「韻(いん)を踏んでいる」詩です。
「韻を踏む」とは何かというと、母音(アイウエオ)が同じ言葉を続けることです。たとえば

「成功?」傾向に抵抗して得る栄光
自己表現 道玄坂で吐く暴言

これを全部ひらがな・カタカナで書くと

せいコウ? けいコウに ていコウして えるえいコウ
じこひょうゲン どうげんざかで はくぼうゲン

となり、カタカナで書いた部分「コウ」と「ゲン」が「韻を踏んでいる部分」です。ようするに「シャレ」の仲間であり、朗読・音読(つまり声に出して読む)する時に特殊な効果を生み出します。
「自転車でにげる」では

やバイ しバイ オートバイ

この「バイ」3連発が「韻」です。また

ぎぜんシャ じてんシャ ちりりりりんサ あかちょこべーサ

この「シャ」「シャ」「サ」「サ」も「韻」と言えるでしょう。
と言うことは「自転車でにげる」は「声に出して読む詩」と言えます。詩には「目で読む詩」もあり、黙って読んで頭の中でイメージすれば良いのですが、「自転車でにげる」は声に出して読んでこそ威力を発揮する詩だと言えますね。
そういうことを分かって歌うか、知らずに歌うかでは大きな差が生まれます。

さて、あとは詳しい説明は不要でしょう。令和3年5月8日に書いたソラノートを引用することにします。

 まずい(やばい)芝居だったわねぇ。オートバイっていうのはウソなのよ。
 最低な(ちんけな)ウソがバレちまったわ。
 トゥートゥル トゥートゥル トゥートゥル トゥ
 あたいは「空を飛べるプロペラまである最新式のオートバイ」だってウソついてたけど、あたいが持ってるのはトンボのハネだったのさ。
 バレちまったようだねぇ。もうハネを持ってズラかる(逃げる)しかないわ。
 人間なんて、どいつもこいつもウソつき(偽善者)なのよぅ。
 あたいは自転車だったのさぁ。
 ブォーンなんてカッコいい音で走るんじゃなくて、チリリリンって走る自転車だったのよぅ。
 あかちょこべえのアッかんべー!!! おどろいたかい?
 トゥートゥル トゥートゥル トゥートゥル トゥ ほいじゃぁアバよ。

こんなこと、よくありますよね。自分は本当は弱虫の泣き虫なのに、
あたいは美人でカッコイイ女よ。あたいについてきな。あんたらにウマい汁をたっぷりと吸わせてあげるからさぁ。さ、みんな。あたいについといで。
こんなことを学校で言っている子が「空」にもいるかもしれませんね(笑)。それが全部バレちゃった。そういう話です。



【ふたりで】


アルファ ベータ ゆうやけ こやけ
きみ ちょう ぼくは はちだ

ほら うで そら あし
くる くるくる くるくる くる

ふたりで くつを ぬいで 
そぅれ ほぅれ にじみて おどれ


ガンマー デルタ はるの のはら
きみ りす ぼくは うさぎ

ほら うで そら あし
くる くるくる くるくる くる

ふたりで 地べた ふんで
そぅれ ほぅれ にじみて おどれ


この詩は平和な連想ゲームです。アルファは「α」、ベータは「β」、ガンマは「γ」、デルタは「δ」と書くギリシャ文字・ギリシャ語で、英語ではABCDにあたります。
あなたが日本語で「一(いち)」と言えば友達は「二(に)」と答えるでしょう。「37」などと答える友達はいない。1と言えばたいてい2が連想されます。同じように3と言えば4と返ってくるでしょう。
あなたが「ゆうやけ」と言えば友達は「こやけ」を連想するでしょう。「きみ」と言えば「ぼく」、「蝶」と言えば「蜂」でしょうね。
「ほら」なら「そら」、「うで」なら「あし」。
だから「アルファ」と言えば「ベータ」、「ガンマ」と言えば「デルタ」。
「春の」と言えば「秋の」かもしれないけど、「春の」なら「野原」もありありです。
つまり、切っても切れない言葉の組み合わせです。そこに「きみ」と「ぼく」が入る。
「きみ」と「ぼく」は切っても切れない言葉なのです。
「ぼく」は男の子を意味する言葉です。「きみ」は男の子にも女の子にもあてはまりますが、「きみ」に続く「蝶」「りす」というイメージから先生は「きみ」は女の子だと考えます。
男の子と女の子が(ロマンチックに言えば切っても切れない恋人同士が)くるくると踊っている。ほほえましいイメージです。
「空」の男子メンバーは、自分の腕の中でカワイイ女の子がくるくる回っている…と思ってください。
「空」の女子メンバーは、白馬に乗った王子様みたいな男の子の腕の中で自分がくるくると回っている…と思ってください。
いずれの男の子・女の子も、将来は結婚する相手をイメージしましょう。ステキですね。

この「くる くるくる くるくる くる」ですが、クルクル回って踊っている…という「クルクル」でしょうね。
しかし詩人は平仮名で「くるくる」と書きました。
ひょっとしたら「クルクル回る姿」ではなく、「来る来る」かもしれません。つまり
幸せがくる 微笑みがくる 希望がくる 未来がくる あなたとの幸せな日々がくる という「来る来る」かもしれません。
その場合、何が「やって来る」のか、その「何が」は自分でイメージを拡げる必要があります。
新実先生は「空」の先輩たちに
「言葉をハッキリ…とよく言いますが、それはハッキリと発音するのではなく、そこに情感が込められる…と言うことなのです」
とご指導くださいました。
くる くるくる くるくる くる
はモチロン踊っている時のクルクル回る様子 とイメージしても良いのですが、幸せがくる 微笑みがくる 希望がくる 未来がくる とイメージして歌うと何とも言えない「情感」が込められてきます。
何にもイメージしていない人の歌声は「クルクルパー」の「クルクル」に聞こえても不思議ではありません。でも、たとえば「幸せが来る」とイメージしている人の歌声には情感が入ります。この差は大きい。

ちなみに「くつをぬいで」は「自由になって」、「地べたふんで」は「ジャンプして」「レベルアップして」つまり「新しい世界へ踏み込んで」という意味だと先生はイメージしていますが、みなさんはどう思いますか?



「なぎさ道」については令和3年5月22日のソラノートをそのまま引用します。

「なぎさ道」は深い詩なので、早めに提示しておきます。詩の世界がみんなの中で発酵する(本当の共感になる)ためには少し時間がかかる詩だと思うからです。

【なぎさ道】

ぬれたわけ おしえましょ
うすい虹が消えるとき
通り雨 あびたのよ
髪が燃えているわ
古いうたのふしで
手さげ籠にあたる
しずくを受けながら
なぎさ道あるいた
声をあげ ゆれてたの
わすれなぐさの青

う~ん、これは完璧に少女の歌ですねぇ。少女の初恋が儚く(はかなく)消えていった情景です。
「ぬれたわけ」とは身体が濡れたのではなく、少女が「泣いたわけ」という意味です。
「うすい虹が」とは「あなたが」ということで、「通り雨」とは「少女の目からあふれた涙」です。
「髪が燃える」とは「髪が(涙で)濡れる」という意味。
ゆえにこうなります。

 泣いたわけ おしえてあげるわ
 あなたがいなくなってしまうとき
 急に涙があふれてきたの
 涙で髪が濡れるほどに

「古いうた」とは「あの時あなたといっしょに歌ったうた」です。「わすれなぐさ」の花言葉は「真実の愛」「私を忘れないで」という意味ですから

 あの時あなたと歌ったメロディーで
 手さげ籠に涙の音を立てている
 その涙のしずくを受けながら
 私は一人ぼっちでなぎさ道を歩いたの
 声をあげて 心がゆれているのよ
 「私を忘れないで」という気持ちが…

うおぉおー。ロマンティックな少女の心だぁ。嶋田先生には分からん世界だぜぇ。
と以前にソラノートにも書いたような気がします。しかし、その後に読み深めているうちに、ひょっとしたらこの詩は「平和への祈り」ではないか…と思い始めています。
「うすい虹」という言葉を「平和」と読んでみてください。
「通り雨」とは「いきなり飛んできた爆弾」で
「古いうた」とは「故郷に伝わる平和を求める歌」。
そうなると、この詩は以下のように読めます。

 泣いたわけを おしえてあげるわ
 あなたが戦死し、平和が消えてしまったから
 人々も町も爆弾をあびて
 娘の髪も身体も焼き尽くしてしまったから
 平和を伝える昔の歌のメロディーで
 手さげ籠だけが歌っている
 その(手さげ籠の)涙を受けて
 私は平和を求めて歩き続ける
 人々の声がゆらめくのが聞こえるわ
 真実の愛って何?という問い掛け(青)が聞こえるわ

うぅ。胸がふさがるような悲しい世界です。
しかし小学生でも知っています。今この瞬間も、世界のどこかで、町が焼かれ爆弾の雨が降っていることを。
そのニュースを「自分には関係ない」と思っていて良いのだろうか。

先生には、何一つできることはないのですけれども…
みんなも考えてみてください。
アインシュタインは言っています。
「考えろ 考えることが始まりだ」



【あしたうまれる】



ねわらの麦に 月がさしこんで
あしたうまれる こうまに語る
おまえのひずめが 丈夫になったら
アジアのはてまで ふたりでゆこう
柵のりこえて 魔物ゆらゆら
ふくろう夜まわり ほぅほとないてる



枯れたはなびら においおぼえろ
しろいつめくさ まずてはじめに
おまえのたてがみ よじれる赤毛
異国でゆれたら わたしが照らす
たにしころころ うらやむばかり
十五夜先生 ふらりかくれる


この詩はバラードです。つまり「物語」。お話になっている詩…という意味ですね。
場所は馬小屋。馬小屋は人間が馬を飼うために作った物で、つまり人間が馬を閉じ込めておく場所です。

 その馬小屋の寝藁(ねわら)にお母さん馬が横たわっています。おなかが大きくて、明日にでも子馬が生まれそうです。
 そのお母さん馬の大きなおなかを月がやさしく照らします。そして、明日生まれる予定の(運命の)子馬に、お月様が語り掛けます。
 「おまえが生まれたら、そしておまえのひずめが硬くて丈夫になったら、この馬小屋を脱出するのだ。
 ここに残ってはいけない。馬小屋にいるかぎり、おまえは人間の奴隷(どれい)なのだ。アジアの果てまで逃げるのだ。」
 生まれた子馬は馬小屋の柵を乗り越えました。でも、外の世界には魔物や妖怪が子馬の命を狙っています。
 フクロウは子馬を守ろうと夜中に見張っています。「ほぅほ」という不気味な鳴き声が魔物から子馬を守ります。

 月の光は子馬を励まし続けます。「枯れた花びらは食料だ。そのにおいを覚えるのだ。」
 「ほら、そこに咲いているのがツメクサだ。おいしいぞ。まず最初にそのにおいを覚えるのだ。」
 さらに月の光は続けます。「おまえの鬣(たてがみ)は美しい赤毛だ。自由の象徴だ。」
 「おまえの鬣が遠い遠い国で揺らめく時、私の光で照らしてあげよう。」
 大地を走る子馬をタニシが見守ります。「子馬は走れるからうらやましいなぁ。」
 月は満月になると、自分の光で子馬が魔物に見つからないように、雲の間に自分の姿を隠すのでした。

こんな物語になるかな。詩に合わせて12行で書いてみました。
みんなもぜひ、12行で「自分の言葉」にしてみてください。月の光のセリフは詩の中ではカンタンに書かれているだけです。くわしいセリフは全部、嶋田先生の創作です。ということは、みんなだって月の光のセリフをもっともっとロマンチックに作ることができるはずです。また、月の光の呼びかけに対して子馬が答えたセリフなども考えてみると良いと思います。

新実先生はメロディーに歌詞を乗せながら、「ルラルラ」とか「ルルル」などのヴォーカリーゼを加えておられます。
この「ルラルラ」とか「ルルル」は、月の光の言葉だと嶋田先生は感じます。つまり人間には分からない言葉。でも意味がある。子馬の耳にしか届かない月の光の言葉。
だから、ただ何となく「ルルル」って歌うのではなく、本気になって月の光の言葉を語るつもりで「ルルル」を響かせなくてはならない。
そのためにも、詩の中の月の光のセリフを自分なりにロマンチックに膨らませておくことは、ものすごく大切なことだと思います。

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