SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


就職 卒業 Image

【就職】

よあけに うらないして
いなかのまち でていく

ナイフの 柄にほる文字
イニシアルは でたらめ

あすから ちがうひと
嘘でも はじめてみる

砂漠の 木になりたい
砂だらけで 生きたい

声なき かたつむり
しらない 地図ひろげ

空とぶ
つばさは なくとも

まずしい こどものまま
はたらくこと きめたよ

さよなら
朝やけしる 水鳥くん


「就職」とは「仕事に就く(つく)」ということ。つまりサラリーマンになるか医者になるか学校の先生になるか、はたまたデザイナーになるか作曲家になるか野球選手になるか。あなたの人生を決める大切なターニングポイント(分かれ道)です。
嶋田先生のように高校生の時に「小学校の先生になりたい」と思って迷うことなく「先生」への道を歩んだのは、非常に幸せなことだったと思います。あるいは大中先生のように「あなたは作曲家になりなさい」という神の声が聞こえた…などという人は幸せです。
多くの場合、迷います。自分は何に向いているのか、何ができるのか、そもそも自分とは何者なのか。そのような「迷い」は人生を送る上で必要なことであり、避けて通ることはできません。でも、迷うことは「不幸」ではありません。生きるために必要なことです。
嶋田先生だって、高校生になる前は迷いました。大切な友達のお父さんがガンで亡くなった時には本気で「医者になろう」と思ったこともあります。
でも挫折(ざせつ)した。「自分には無理だ」と思いました。と言うよりも「自分には向いていない」ということが分かりました。
そのような「挫折」なら良いのですが、もし嶋田先生が教員採用試験(先生になるためのテスト)に不合格だったら、すごく悲しい「挫折」を味わったことでしょう。そして「先生」ではない「違う仕事」に就き、違う人生を歩んでいたかもしれません。そこで不合格だったら、それは不幸せなことなのでしょうか?答えはNOです。
もしかしたら、その「違う仕事」に就いて今とは違う人生を歩んだ方が、今よりも有名な大金持ちになっていたかもしれない。これは神様だけが知っていることで、何が「その人にとって最高の幸せであるか」は誰にも永久に分からないのです。だから生きることって面白いし、だから就職の前には全ての人が悩みます。
みんなのお父さんやお母さんたちも、このターニングポイントを通ってきたはずです。
ここまで読んできれたメンバーは、もう自分なりのイメージができたと言えます。


 夜ずっと寝ないで (眠れないほど)考えて
 故郷を(父さん母さんの家を) 出ていくボク

 持ち物すべてに これから書く名前は
 今までのボクではない 新しいボク

 明日から 自分の力で生きるボク
 いつまでも父さん母さんに甘えてはいられない

 世の中の 役に立つ人になりたい
 砂だらけ泥まみれになっても 役に立って生きるんだ

 不安だ…という声を押し殺して ボクは
 知らない世界に 飛び込んでゆくんだ

 カッコよくテレビに出たりして
 有名になんか ならなくても良い

 何も知らない 純粋な心のまま
 勇気を出して働くんだ そう決めたんだ

 さようなら
 父さん母さんの愛に守られていた ボク

「就職」は、新しい自分になることへの不安に打ち克とうとする「勇気の讃歌」と言えるでしょう。




【卒業】

紙ひこうき 芝生で とばしたら
折りたたむ かなしみが ひらいた
この 白さは いつまで のこるのか
天山北路の すなふる はなみずき
まどがらすに さよなら 書いたゆび

友おくると 靴ひも 直したら
いしみちに ゆうぐれが あふれた
なぜ けものの わかさは つらいのか
ボッティチェルリ うまれ日 しらべてた
水たたえる あの目を わすれない


この詩は小学生や中学生のメンバーには申し訳ないけれど、高校生の卒業の歌です。
でも、詩の世界は高校生だけの話ではなく、小学校や中学校やもちろん幼稚園・保育園の卒業を経験してきた子なら共有できる世界です。
自分が学び、そして遊んだ校舎。友達と語り合い、いっしょに笑いいっしょに泣いた校庭。そしてお世話になった先生。
いったん卒業・卒園したら、もう自分はそこにもどることはできないのです。もちろん「こんにちは~。あそびにきましたぁ」とか言って校庭に入り先生に会いに行くことはできるでしょう。しかし、その時の自分はもう「そこに通った自分」ではなく、「新しく生まれ変わった自分」なのです。
新しく生まれ変わった自分…。人間は何度か、そのような「大切な時」を迎えます。これは全ての人間にやってくる「時」であり、通過しないで済ますことはできません。
小学生になる、中学生へと進学する、高校生へと生まれ変わる、そして社会人として自立する、これ全て「卒業」であり、新しく生まれ変わる…ということです。それは嬉しいこと、晴れがましいことであると同時に、「それまでの自分」と訣別(けつべつ)する辛い(つらい)瞬間でもあります。
ここまでを読んで「そうだね」という共感が心にあるのなら、あなたは以下のソラノートを読む必要はありません。立派に「自分のイメージ」を持っています。自分の心の中にある校舎や先生や友達のことを思い浮かべて歌えば良いと思います。

「卒業」は、53曲ある「白いうた 青いうた」の中でも最もポピュラーな(有名な)曲で、いろいろなコンサートや学校の校内音楽祭などでも歌われています。
おそらくはメロディーやハーモニーの魅力もさることながら、詩の世界が誰にでも共感できるものであり、今から嶋田先生が書くような「文学的な読み取り」や「言葉の解釈」などが不要だからだと思います。

ですが書いておきます。なぜならば、みんなはもう「自分なりのイメージ」を十分に膨らませているでしょうが、たとえば1番の4行目「天山北路の すなふる はなみずき」とか2番の4行目「ボッティチェルリ 生まれ日 しらべてた」などの言葉について「どんなイメージ?」と聞かれても、答えられる人は少ないだろうと思うからです。「さぁ…? 天山北路とかボッティチェルリとか、よく分からんけど。ちょっとセンチメンタルな感じだね。それで良いんじゃない?」くらいの答えしか持っていない演奏になってしまっては、それはサミシイことです。

1番について

天山北路 → 中国大陸の北西に天山山脈があります。東ヨーロッパと中国の都を結ぶシルクロードは天山山脈の北側を通る天山北路と天山山脈の南側を通る天山南路があり、ともに栄えました。ここは砂漠の真ん中で、そこから細かい砂が風に巻き上がり、なんと日本にまで届いて降ってきます。「黄砂」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。
すなふる → 黄砂が西風にのって中国大陸から日本列島まで運ばれて降ってくる現象のこと
はなみずき → 花言葉は「永続性」「私の思いを受けてください」 自分自身とイメージします。
紙ひこうき → 卒業するよ旅立つよという気持ち
芝生 → 自分が過ごした教室・校庭

2番に入ります。

靴ひもを直す → 追いかけて走ろうとする
いしみちに → 自分の進むべき道に
ゆうぐれがあふれる → 友達の姿が見えなくなる 進むべき道が自分とは違うんだと分かる
けもの → 若い人 つまり自分
ボッティチェルリ → 15世紀のイタリア・フィレンツェの画家。歴史に残る作品を残している。ボッティチェルリの誕生日は3月1日。少し前まで高等学校の卒業式は3月1日が定番だった。今でも多くの高校は3月1日かその前後を卒業式にすることが多い。
水たたえる → 涙をうかべる


 卒業します…と 校庭に 告げた時
 心の中にしまいこんでいた かなしみが ひらいた
 この 自分の素直な気持ちは いつまで のこるのか
 遠くて知らない世界(自分の未来)から 飛んできたメッセージを 私は受け止める
 そして窓ガラスに さよなら(ありがとう)と 書いた私の思いを受け止めてください

 一緒に行こうよと友達を 追いかけていこうとしたら
 あの子の進むべき道と 自分の進むべき道は 違うんだ…と分かった
 なぜ 僕たちの 若い命には 別れるつらさがあるのだろう
 3月1日まで残り何日しかない と指折り数えていた
 涙があふれた あの子の目を わすれないで生きていこう

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