パートについての考え方

【令和6年5月18日(土)】
 今日も嬉しいことに3年生の新入団員を迎えることができました。入団するということが連絡で分かっていましたから、最初から定期演奏会のための練習に突入することができました。でも、その前に自己紹介コーナー。あと10回くらい自己紹介コーナーをやりたいね(笑)。みなさん、よろしくね。

 さて、定期演奏会のための練習と書きましたが、もちろん演奏会で歌う曲を進め、定着させるのと同時に、実は「あること」を考えていました。
 その「あること」とは新しいメンバーの声を最も生かすパートを決めると同時に、すでに決まっているメンバーのパートが本当にベストなポジションか確かめる…ということでした。
 新しいメンバーの声を最も生かすパートを決めることが大切であることは、全員の思いが一致するところでありましょう。
 問題は、すでに決まっているメンバーのパートが本当にベストなポジションか確かめる…ということです。
 「オレらは八百屋の店先に並んでいる野菜とはチガウぞ!そんなにコロコロとパートを入れ替えられたら困っちまうがゃ」と誰かに言われたら(そう言う子がいるという意味ではありませんよ)チャンと「こういうわけなのだ」と説明し、ナットクしてもらわなくてはならない。これはクラスでも合唱団でも同じです。

 どういうことかと言うとですね、話を分かりやすくするために合唱団「空」が15人しかいないものとして、各パートが
 ソプラノ   5人
 メゾソプラノ 5人
 アルト    5人
だったとしましょう。この15人で本番を歌うと決定していれば話はそこで終わりです。
 でも、クラスでもありますが、新しい転校生がやってくることはよくあります。以前にも話しましたが、学芸会(今は学習発表会)の3日前に嶋田先生のクラスに転校生が来てくれて、普通は学芸会本番にはその子は客席から応援…ということになるのでしょうが、嶋田先生は急遽(きゅうきょ・とても急いで)その子のためのセリフを作り、その子も本番のステージに立たせました。もちろん物語の展開が変わらないような「付け足しのセリフ」ではありましたが、嶋田先生としてはクラスの子が一人だけ客席で応援などということはイヤでした。申し訳ないけど、嶋田先生はそういう種類の人間なのです。

 で、各パートが5人ずつ…という「空」に新メンバーが来てくれて、話を分かりやすくするために新メンバーが全員メゾソプラノの声だったとしましょう。すると
 ソプラノ   5人
 メゾソプラノ 10人
 アルト    5人
こういうことになります。
 もう分かってもらえたと思いますが、5と10と5では合唱としてのバランスが悪いですよね。そうすると新メンバーだけを無理矢理ソプラノやアルトに回すという考え方も、もちろんあります。ですが、とりあえず新メンバーのベストポジションを調べた上で、他の子(すでに決まっているメンバー)のパートにも「もっと良いポジションがあるのではないか?」と考えるのが、より良いクラス、より良い合唱団を目指す大切なポイントでしょう。嶋田先生はそう考えます。申し訳ないけど、嶋田先生はそういう種類の人間なのです。

 そこで、「もし、アフリカ象の耳よりもっと大きな耳になれたら」と「風の子守歌」を使って、今日来てくれたメンバー全員の声を聞きました。
 この2曲をすでに何度も歌っているメンバーには「歌詞もメロディーも全部覚えて、池辺先生が来た時に暗譜(楽譜を見ないで歌うこと)ができるように自分を鍛えてください」とお願いしました。

 で、新しいメンバーの声を最も生かすパートが分かりました。と同時に、すでに決まっているメンバーのパートが本当にベストなポジションなのかも分かりました。少なくとも先週と今日とでは先生の中で変わりましたよ。「ああ、この子はソプラノをやっているけど、ひょっとしたらメゾソプラノの方がベストかもしれないな」ってね。
 だからと言って、即刻ただちにパートを変えるとは限らない。そもそも今日、全員の声を聞いたわけではありませんし(そろそろ中間テストだしなぁ)、一人一人が大切なメンバーなのですから誰かを変えるということはそのパートに大きな穴が空く。そうカンタンに決められるものではありませんよ。
 でも、「空」は基本的に
 全てのパートを全てのメンバーが知っている
という状態で練習をしていますからね。それがいかに大きな力になるか、このパート編成の話からも分かります。

 「もし、アフリカ象の耳よりもっと大きな耳になれたら」は、今回歌う曲の中でも最もイメージが明確で分かりやすい曲ですね。
 今日は「話を分かりやすくするために」シリーズです。
 小林一茶(こばやし いっさ)という有名な俳句の名人がいます。
 名月を 取ってくれろと 泣く子かな
 という有名な俳句があります。この俳句の意味は
「私が背中に背負っている(せおっている)子が、十五夜の月を指して「とってちょうだい」とねだり、泣いている。かわいくてかわいくて仕方がないよ」
とでもなりましょうか。
 俳句の中には「かわいくてかわいくて仕方がないよ」とは書かれていません。でも、その子には中秋の名月がおいしいスイーツに見えたのかもしれないし、「食べたいよぅ」と言ったかどうかも分かりませんが、とにかく「かわいい子」だということは小学生にも分かると思います。
 日本の詩は、和歌や俳句を土壌(どじょう・基本)にしていますから、文章に書かれていない「裏(うら)」を感じ取ることが大切です。ここがゲーテ(ドイツ)やシェイクスピア(イギリス)との大きな違いです。
 もし、「アフリカ象の耳より…」の歌詞を「裏(うら)」を感じ取らないで読んだら、どうなるでしょう。

 はい。みなさん、頭の中に嶋田先生を思い浮かべましょう。その嶋田先生の耳が3メートルくらいの大きさの耳になった、その姿を想像してみてください。
 こりゃアホの極み。ばかばかしくって話にならない。分かりますか?この感覚。

 「アフリカ象の耳よりもっと大きな耳になりたい」という願いは、そういう大きな耳になりたいのではなく、世界中の人々の苦しみや悲しみを聞き取って分かってあげられるような耳がほしい…という願いなのです。
 みんなは、そう思いませんか?クラスの中にいじめられている子がいたら、あるいは生まれてすぐにお母さんを亡くしてしまった子がいたら、そんな友達の気持ちを本当に分かってあげることのできる、そんな自分になりたいと思いませんか?

 嶋田先生は「そうなりたい」と心から思います。思っているだけで本当に「そういう人」になれているかどうかは自信がありませんが、「そうなりたい」と思います。自分はそうなるべきだ…とも思います。
そう思っていない人が「もし、アフリカ象の耳よりもっと大きな耳になれたら」を歌っているとしたら、そのコンサートは「3メートルの耳の嶋田先生」みたいな変なコンサートだ…とも思いますが、それは言い過ぎなのだろうか…。