SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


曲集「やさしい魚」Image

【感傷的な唄】

風が吹くから
生きよう
そう思う前に
もう足が駈け出していた

風が吹くから
見えないものを
信じることができた

不意に思い出す
トンボがつながるときの
カシャ という音

小鳥の歌に
人間の歌で返事しよう
と思ったときのこと

体温計のケースに
しのばせて
手渡そうとした恋文は
とうとう渡せないまま
あれから
どこへ行ったのだったか

唄好きな蝶番(ちょうつがい)は
他の(よその)星から飛んできた風船と
よく話をしていたし

位の低い神様のベンチには
主題のない招待状が
陽に光っていた

死んでしまって
肉体もすっかり滅びても
私の
もう此の世のものではない耳に
美しい歌だけが聞こえてくる
そんな祈りが
もしかして
適えられないだろうか

結論を先に書きます。「感傷的な唄」は人間が生まれてから死ぬまでをたった3分の音楽に凝縮(ぎょうしゅく)した世界です。
この詩、使われている言葉がカンタンですから、まっすぐにそのまま読めてしまいます。こんなふうに。

風が吹くから生きよう と思ったのか。
そう思う前に もう足が勝手に走り出したんだな。
風が吹くから 見えないものを信じたんだな。
不意に(急に)思い出したんだな。
トンボがつながったんだな。
カシャっという音がしたんだな。そんな音するかな?
(中略)
位の低い神様がいたんだな。
そしてベンチに座っていたんだな。
ベンチにはテーマが書いてない招待状があって
太陽の光に輝いていたんだな。
知らんけど、きれいな詩だな。
ほう。死んじゃったんだな。
肉体が滅びたんだな。
耳が天国にでも行ったのかな。
美しい歌が聞こえてきたんだな。
そんなふうに祈ったんだな。
祈りを適えてほしいって思ったんだな。
分からんけど、悲しい感じだな。

これまでに嶋田先生が聴いた「感傷的な唄」は大なり小なり上のような感じで歌われていました。
風が吹いて トンボがつながって 肉体が滅んで 美しい歌が聞こえて はい、知らんけどメデタシメデタシ。
こんなふうに歌って、歌う意味があるのだろうか…。申し訳ないけれど、私はそういう歌は「歌ではない」と思います。
まず、「風が吹くから生きよう」じゃないんです。ここが間違いの元。
「風が吹くからもう足が駈け出していた」なんです。
同じように「風が吹くから見えないもの」じゃなくて「風が吹くから信じることができた」なんです。
「風が吹くから」とは、あなたに命をくれた神様が「あなたに命をあげよう」と言ったから という意味です。
だから川崎洋の言いたかったことは、こうなります。

神様が「お前に命をさずける」と言ったから
「こんなふうに生きよう」と私が思う前に
もう自分は生まれていた

神様が「お前に命をさずける」と言ったから
目に見えない愛、形のない優しさを
信じることができた

以下、【 】でおおよその年齢をイメージして、原詩と同じように改行して記します。
「トンボ」は「父さんと母さん」であり、「蝶番」とは「自分の子ども」という意味です。
なぜ「蝶番」が「子ども」なのかと言うと、もともとは他人である「父さん」と「母さん」を結びつけているのは父と母との間に生まれた「子ども」だからです。「蝶番」とは扉(父)と壁(母)とをつなぐ金属の金具です。

【生まれる前~生まれた瞬間】
 神様が「お前に命をさずける」と言ったから
 「こんなふうに生きよう」と私が思う前に
 もう自分の命は始まっていた

【5才ごろ】
 神様が「お前に命をさずける」と言ったから
 目に見えない愛、形のない優しさを
 信じることができた

【10才ごろ】
 とつぜん(不意に)思い出したんだ
 父さんと母さんが結婚した(写真を見た時の)ことを
 祝福の鐘の音が聞こえたことを

【15才ごろ】
 (そして生まれた私は)小鳥の歌に
 人間の歌で返事がしたい
 と本気で願っていた

【18才ごろ】
 小さな箱に
 そっと入れて
 (あなたに)手渡そうとしたラブレターは
 あの時、渡せなかったわ
 あの手紙
 どこにしまってあるのかな

【30才ごろ】
 (あなたと私との間に生まれた)赤ちゃんは歌が大好きで
 宇宙から飛んできた流れ星に
 大喜びで話しかけていたわね

【90才ごろ】
 私だけの神様がいるところに
 「もう(こちらの世界へ)帰っておいで」という招待状が
 届いて光に包まれていた

【死んだ後】
 (あなたと過ごした幸せな)命が終わって
 私の身体は無くなってしまたけれど
 もう此の世のものではない(私の)耳に
 (あなたと歌った)美しい歌だけは聞こえてくる
 そんな私の祈り そんな私の願い
 もしかしたら
 神様は聞き届けてくれるのかしら

ぜひ、こんなイメージを拡げて参考音源を聴いてみてください。新実先生がなぜ最初の部分を変則の7拍子にしたのか、あるいはP14の下の段の4小節目から実に不思議な響きのピアノ伴奏にしたのか、理解できると思います。

【ジョギングの唄】

おれは常套句を愛する
すなわち
<自分の歩幅で>
というやつだ
および腰の知性なぞ
古い運動靴のように打ち捨てて
わっしょい

人は
よりよい明日をつくり得る

意地でも思いこんで
わっしょい

心臓から押し出された血が
ふたたび心臓にもどるのに
18秒しか かからぬそうな
寸刻ごとに
新しいのだぞおれは
わっしょい

おれの生き方は
こうなのだ
こうなのだ
こうなのだ
と確かめながら
いとしい地球を踏んで行くのだ
わっしょい

常套句(じょうとうく) → いつもきまって使う文句。決まり文句。
知性 → 物事を知り、考え、判断する能力。

朝起きたら「おはようございます」、学校から帰る時には「さようなら」「またね」これが常套句です。世界中の誰もが知っていて、いつも使っている「真実の言葉」ですね。
一方、知性が高いということはようするに頭が良いということなのですが、この詩では知性という言葉をどちらかと言うとマイナスに使っています。つまりドラえもんに出てくる「スネ夫」やちびまる子ちゃんに出てくる「花輪くん」や「丸尾末男くん」みたいな子が、朝教室に入った時に「おはよう」ではなく「やあ、みんな。今日も血中酸素濃度が正常そうで良かったですねぇ。ベイビー」なんて言うことかな。
「および腰の知性」とは、「本当は良く知らないのにいかにも完全に理解しているような顔をして使う難しい知識」です。小学生が「地球温暖化」だとか「血中酸素濃度」などという言葉を完全に理解しているはずはなく、第一嶋田先生だって科学者のレベルで知っているわけではない。私たちがふだん使うコトバは多かれ少なかれ「および腰の知性」です。
ホントかよ、って思うメンバーもいるでしょうね。では、そのメンバーに聞きますが、小学校3年生の理科に磁石の学習があります。◯磁石はN曲とS曲がある ◯NとSは引き付け合うけど、NNとSSは反発する ◯磁石は鉄を引き付ける ◯N曲は北を向く と、この4つを理解していれば3年生のテストなら必ず100点です。
ですが、●NNとSSで反発する力って(磁力線と言います)どんなエネルギーで一体どこから出ているの? ●磁石はなぜ金銀銅メダルは引き付けないの? と聞かれた時に答えられますか?
文部科学省の人に殴られるかもしれないけど、日本中の3年生が「磁石はN曲とS曲があって…」と言っているのは「および腰の知性」です。磁石の本質を理解している喜びではなく、教科書に書かれていることを正しく覚えた喜びに過ぎません。
上の二つの●は、高校生や大学生でも答えられる人は少ないはずです。ひょっとしたら、私たちが知っていることって99%が「および腰の知性」なのかもしれません。

4つの部分からできている「ジョギングの唄」の中で、2連目から4連目までは全て「常套句」です。つまり「よりよい明日をつくる」とか「寸刻ごとに(1秒ごとに)新しいのだぞ おれは」とか「おれの生き方は こうなのだ」などは、実際にそのように生きることは簡単ではありませんが「世界中の誰もが知っていて」「世界中の誰もが願っている」生き方ですね。

 おれは常套句を愛する
 すなわち<だれかの歩幅をマネする>のではなく
 <自分の歩幅で>
 というやつだ
 アヤフヤな知ったかぶりの知識なぞ いらない
 そんな知識は古い運動靴のように打ち捨てて 自分らしく生きるのだ
 わっしょい

 人は 人間は おれは
 よりよい明日をつくることができる
 と
 意地でも思いこんで そして必ずつくってみせる
 わっしょい

 心臓から押し出された血が
 ふたたび心臓にもどるのに
 18秒しか かからない これは真実だ
 つまりおれは18秒に1回生まれ変わる
 いつも新しいのだぞ おれは
 わっしょい

 おれの生き方は
 こうなのだ 先生が決めることじゃない
 こうなのだ 大人が決めることじゃない
 こうなのだ おれが決めることなのだ
 と確かめながら
 いとしい(愛する)地球を踏んで行くのだ
 わっしょい

【天使】

まなざし
だけ が
みえる


の かたち
でなく

まなざし
という


むこう の
いめーじ

おなじように
つばさ

きず が

そして
てんし

ことよせて
ひどいこと

いいそう

なる
のを

いっしょうけんめい

こらえる

この詩に使われている言葉は全部、小学校の国語で学習する言葉です。だから「この詩についてのイメージや感想を書いてください」と宿題を出しても、ほとんどの子はその宿題を出すことができるはずです。小学生はもちろん、中学生や高校生や、大人を含めた全ての人が知っている言葉ですね。
しかし、その言葉の組み合わせになると、簡単には答えられません。
まず、「眼差しだけが見える」とは、どういう意味なのでしょう。
そして、「目の形でなく」「眼差しという「字」の向こうのイメージが」とは、何を意味するのでしょう。このあたりでかなりキビシイですね。
そして、「同じように翼の傷が」となって、完全にノックアウトでしょう。
白状しますと、嶋田先生は21年前にこの曲を歌った時、完全にノックアウト状態でした。
しかし、当時としてはそれなりに努力をして、
ロマンチックに歌おう。自分は友達や仲間に対して「ひどいこと」を言っていないだろうか、そう思う気持ちを歌おう。やさしく丁寧な音楽をロマンチックに表現しよう。
と思っていました。
それで良いのかもしれません。しかし、「なぜロマンチックにやさしく丁寧に歌うのですか?」と聞かれれば、「なんとなく、そう感じるから」としか答えようがありませんでした。
それだけで良いのだろうか…。
詩を歌う時、自分の心と感覚と持っている知恵と知識を全部使って考えてみよう。自分の感受性の全てを働かせて詩人と話をする…そういう努力をしてみよう。
そう思うようになったのは「天使」という曲に出会ったからです。
新実先生に限らず、湯山先生も大中先生も、「ウタ」を作曲する作曲家はみんな、ご自身の感受性の全てを全身全霊で働かせて詩を感じ、そしてイメージを膨らませ、その詩の世界をご自身の「美の世界」に映し込んで再現させているのです。
だから、詩人がいて作曲家がいて、その次に「歌う人」がいて、その「歌う人」が自分であるならば、詩人や作曲家のレベルには遠く及ばないとしても、その努力は必要です。

「自分の目」というのは「自分の心」ということ。「自分の目」は、みなさんにとっても先生にとっても「この世で一番優しいもの」であり、同時に「この世で一番きびしいもの」です。自分の心ですから、自分のことを全て分かっていてくれる存在です。でも怖い。
みなさんは、自分が思ったり考えたりしたことを全部、人に話せますか?話せませんよね。
お父さんにもお母さんにも言えない、もちろん友達にも言えない、先生になんか言えるはずがない「自分だけのヒミツ」を持っているはずです。
先生は持っています。
自分がどんなに悪いことを考えているか、どんなにエッチな人間であるか、どんなに変態的でひどいことを感じているか。いやぁ、とても恥ずかしくて人には言えません。もちろん奥さんにも言えません。そのような「自分だけのヒミツ」なのに、この世にたった一人だけ全てを知っている者がいる。それが「もう一人の自分」であり「もう一つの自分の目」なのです。
人間は「もう一人の自分」に対して絶対にウソをつくことができません。また隠し事もできない。怖い存在です。
でも、その「もう一人の自分」は、先生が思わず万引きをしてしまいそうになった時に「やめろ!!!!!」と止めてくれました。悪いことを考える先生が悪いことができないのは「もう一人の自分」がいつも先生を見ていてくれるからです。「この世で一番優しいもの」です。
みんなにもいるでしょう?「もう一人の自分」が…。

 自分の後ろでいつも自分を見守っている「もう一人の自分」の目
 が自分自身だけを
 見つめている

 それは「目の形」とか
 実際の「本物の目」
 ではなくて

 もう一人の自分の目
 という
 文字でもない
 そのような現実のものでもない
 自分だけが
 感じる「自分の目」
 が私を見つめている

 おなじように
 つばさ
 の
 きず が見える 私の翼は「きず」を持っている それが見える

 そして
 「私は天使だぞ」「天使はやさしいんだぞ」
 と
 言い訳をして
 友達に ひどいこと 思いやりのないこと
 を
 言ってしまいそう
 に
 なる
 のを

 いっしょうけんめい
 に
 こらえる

【鳥が】

鳥が
空を見上げるように
花が つぼみを ほどく

鳥が
羽ばたこうとするように
花が 葉をしげらせる

鳥が
飛びたつように
花が 咲きそめる

鳥が
歌うように
花が におう

そして
人は ことばで
鳥のように飛び
花のように咲く

「鳥が」については説明は必要ありません。本当にストレートに、詩の世界が私たちの心の中に広がります。素晴らしい詩です。
楽譜には詩人の川崎洋さんが「五つの詩に寄せて」について、
鳥も人も花も、見た目の形状ほど、実はお互いに変わってはいない、血のつながった存在なのだという気持ちがわたしにはある。
と記されています。
この詩人の言葉についてだけ、嶋田先生の考えを述べておきます。
それは、この詩が「鳥」と「花」をチェンジしても全く同じ素晴らしさで成立する…ということです。つまり

【花が】

花が
つぼみをほどくように
鳥が 空を 見上げる

花が
葉をしげらせるように
鳥が 羽ばたこうとする

花が
咲きそめるように
鳥が 飛び立つ

花が
におうように
鳥が 歌う

そして
人は ことばで
花のように咲き
鳥のように飛ぶ

この詩も素晴らしい世界です。もしかしたら「花が」の方が好きだ…という子がいるかもしれません。でしょ?
問題は、「鳥も人も花も」という川崎洋の言葉です。つまり「人」という言葉。これは少し乱暴な方法ですが、以下のように置き換えると分かりやすいと思います。

【人は】

鳥が 空を見上げるように
花が つぼみをほどくように
人は ことばで………A………

鳥が 羽ばたこうとするように
花が 葉をしげらせるように
人は ことばで………B………

鳥が 飛びたつように
花が 咲きそめるように
人は ことばで………C………

鳥が 歌うように
花が におうように
人は ことばで………D………

………………の部分に、みなさんならどんな言葉を入れますか?
あいさつをする ともだちをはげます 友情を不滅にする 愛を語る 未来へとすすむ などなど。
このABCDに自分なりの言葉を入れてみましょう。それが、詩人と対話する ということなのです。

【やさしい魚】

やさしい魚のやさしいうろこが
月曜日に一枚火曜日に二枚剥がれた

剥がれたうろこは銀色にひかりながら
海の中見えない底へ沈んでいく

やさしい魚のやさしいうろこが
水曜日に三枚木曜日に五枚?がれた

うろこが剥がれて
やさしい魚はひりひり痛い

やさしい魚のやさしいうろこが
金曜日に十四枚土曜日に三十八枚?がれた

日曜日 歌おうと海に来てみれば
砂に終止符のようなやさしい魚のなきがら

『幸福な王子』という、アイルランドのオスカー・ワイルドが書いた童話を知っている子がいるかもしれません。こんな話です。

ある街に「幸福な王子」と呼ばれる像がありました。この国で若くして死んだ王子を記念して立てられたこの像は、両目には青いサファイア、腰の剣には真っ赤なルビーが輝き、身体は金箔に包まれていて、とても美しく輝いていました。
冬を越すために南の国へ行こうとしていたツバメが寝床を探し、王子の像の足元で寝ようとすると突然上から大粒の涙が降ってきました。王子は街の不幸な人々に「自分の身体の宝石をあげてきてほしい」とツバメに頼みます。ツバメは王子の剣に使われていたルビーを病気の子供がいる貧しい母親にとどけ、両目のサファイアを幼いマッチ売りの少女に持っていきました。南の国に渡ることを中止し、街に残ることを決意したツバメは街中を飛び回り、両目をなくし目の見えなくなった王子に色々な話を聞かせます。王子はツバメの話を聞き、まだたくさんいる不幸な人々に「自分の身体の金箔を剥がして与えてくれ」と頼むのでした。
やがて冬がきて王子はボロボロの姿になり、南の国へ行けなかったたツバメも次第に弱っていきます。ツバメは最後の力を振り絞って王子にキスをし、彼の足元で死んでいくのでした。
この様子を見ていた神は王子とツバメを天界に入れ、そして王子とツバメは楽園で永遠の幸福を得たのでした。

この童話を知っていると、5曲目の「やさしい魚」に詩人が込めたイメージが膨らむことは明らかです。

曲の最後で「砂に終止符のようなやさしい魚のなきがら」と歌う時、もちろんさびしく悲しく歌うのでしょうがそれだけでは足りません。王子とツバメがそうであったように「やさしい魚は楽園で永遠の幸福を得たのでした」というメッセージを客席に伝えて音楽を終結させましょう。今の「空」のメンバーなら、きっとそれができるはずです。

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