SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


「小さな目」を全曲歌った!

【令和2年9月12日(土)】
先週は「雉」と「わさび田」を歌ったので今日は「猪譚」から練習を始めようと思っていました。でも集まったメンバーを見て、「小さな目」の「おかあさんの手」を中心に練習を組み立てることにしました。これは集まったメンバーの出来が良いとか悪いとか、実力がどうだこうだと言う話ではなく、各パートの人数とバランス、そしてそのメンバーで歌う時に最も効率が良い曲を選ぶ…という話です。
集まったメンバーなら「猪譚」よりは「おかあさんの手」の方が効率が良いと思った。一瞬の判断です。
こういう予定変更は嶋田先生の頭の中ではしょっちゅうで、考えてきた予定どおりに練習が進むことはほとんどありません。
まずは発声練習で「おかあさんの手」の前の「えんそく」を使います。ここで注意したことは
「先生」という言葉が何度も何度も出てきますが、全て言い方(歌い方あるいは声の出し方)を変えるように
ということです。メンバーの(子供の)立場だったら、これは全部「私だけ」が先生を呼んでいるコトバのように思えるでしょうし、実際に作詩者はそう思っていることと思います。ですが、教師の立場だったら、先頭に立って遠足の目的地に向かって歩いている時に後ろから付いてくるクラスの子が40人、その40人がいろんなことを話しかけてくる場面です。1人の子だけが話しかけてきて残りの39人がダマって付いてくる…なんてことは有り得ない。40人が40個の口でピーチクパーチクしゃべっているんです。それが太郎くんは「橋があるよ」と言うし花子さんは「バラが咲いてるよ」と言うし、バラバラなことを話しかけてくるんです。それが遠足っていうもんです。
あっちからピーチク、こっちからパーチク、前の方でガヤガヤ、列の後ろからワイワイ。そのバラバラな呼びかけがあっちからもこっちからも出てくるのが「えんそく」という曲の面白さです。
次に、「咲いてるよ」の「よ」、「落としちゃった」の「ちゃった」、「つかれちゃった」の「ちゃった」、「お弁当にしてよ」の「してよ」に付いているスタッカート。これをキチンとリズミカルに歌うということです。そのような表現をすることによって生き生きとした躍動感(やくどうかん・はずむように楽しい感じ)が生み出されるのです。
本題の「おかあさんの手」に入ります。音も確認しましたが、大切にしたかったのは「スケールを大きく、巨大な感じで歌う」ということです。特に練習番号E「ママの手はあれている」からのフォルテの連続。時々メゾピアノになりますが、それは次のフォルテに向かってクレシェンドするための準備です。本質的にEからはフォルテとフォルティシモの音楽だと考えてください。
なぜかと言うとですね…
これはオシメやパンツを洗っている音楽ではないからです。もちろん作詩者(小学1年生)は「ぼくたちのオシメ」というイメージで原稿用紙にエンピツを走らせたと思います。1年生の子が書いた言葉が、普遍的(ふへんてき・100年たっても変わらない真実)な詩になったのは、親とは何か、子供に捧げる愛とは何か、ムズカシイ言葉を使えば自己犠牲とは何かという普遍的な課題を突き付けているからです。1年生の子が(自分では意識していなかったはずですが)書いた詩の中に、その普遍的な(プロの詩人でもめったに書けない)課題を感じ取ったからこそ、湯山昭という作曲家は目を向けたのです。
親が子を育てる、自分の生命を次の世代へとつなぐ。それはキツネもペンギンも、犬も猫も人間も同じです。親は子を守るためには自分の生命でさえも犠牲にできます。
みなさんが熱を出した時(一度や二度はあるでしょう)、父さんや母さんは朝まで寝ないで看病し、見守り続けたことが(一度や二度は)あったはずです。次の朝は早くに会社に行かなければならないとか、懐かしい友達に会う予定があるとか、そういうスケジュールを全て無視して、ただただ子供を見守り続ける…。それが親であり愛なのです。
ママの手は荒れている、ぼくたちのオシメをたくさん洗ったからだ
という1年生の子が使った言葉の中に、私たち人間だけではなく全ての生き物に通用する「大きな大きな愛」の本質を感じるのです。
だから湯山先生は大きな大きなフォルテとフォルティシモにした。巨大なスケールで「愛」を歌い上げるのです。オシメやパンツを洗うという小さなイメージでは話になりません。
と、そんな話をする前と後とでは、歌声が確かに変わります。どこがどう変わった?と言われれば明確に説明することはできませんが、少なくとも声が変わっている。声の持つ「熱量」が上がっているとも言えます。みんなが「何かを変えよう」と思って歌っていることは100%間違いないと思う。そんな歌声です。

だから予定を大きく変えて、後半の練習は「小さな目」を全曲通すことにしました。1曲に10000回間違えてもOKと言いました。10曲ありますから10万回間違えても良いから、自由に、自分が思ったとおりに「歌おうよ」と呼びかけました。
途中、「手紙」は少し丁寧に音程を確認しましたが、10曲を全部歌い飛ばすことができました。歌い飛ばせば良いんです。元気でエネルギーのある歌声。それがあって初めて「デリケートな表現を練り上げる」ことができるのです。今日の練習は大成功でした。そう思っています。
時間が余ったので「コタンの歌」から「熊の坐歌」と「臼搗き歌」を歌いました。一昨日の木曜日、東海メールクワイアーが練習した曲ですが、なかなかうまくいきません。なぜうまくいかないかと言うと女声パートがないからです。「空」が歌ってくれないと百戦錬磨の東海メールクワイアーでも苦労します。だから近い未来に東海メールクワイアーと合同で練習をする時に備えて、東海メールクワイアーが苦労している部分を「空」がスパッと歌うことができるようにしようと思いました。
その目的は一発で達成されました。東海メールクワイアーがどの部分で苦労しているのか、くわしく書く必要はありません。嶋田先生はメンバーの歌声を聴いて「早く合同練習ができるといいな」と純粋に思いました。みんなが混声合唱のハーモニーを体験することも大きなプラスですが、それよりも「空」と合わせることによって東海メールクワイアーが成長する(?)プラスの方が大きい…と現段階では思います。本当にそう思いました。そう思わせてくれるような素晴らしい響きでした。ありがとう。

午後、父母総会があり、定期演奏会に関する共通理解を確かなものにすることができました。すでに総務の方から共通理解の内容がメールで回っていますが、明日か明後日までには「ソラノート」でも詳細を報告したいと思っています。

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