SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


「聴く力」を高める講座⑧

【令和2年4月19日(日)】
湯山先生は「合唱組曲」という言葉を使われないことがあります。「四国の子ども歌」はエスキースですし「北陸の子ども歌」はタブローとなっています。「コタンの歌」の場合は
混声合唱とピアノのためのバラード
となっていて、「バラード」とは「物語」という意味になります。
これに対して「小さな目」「鮎の歌」「駿河のうた」などは合唱組曲となっています。
そもそも「合唱組曲」という形式は日本独自のもので、その発祥つまり第1号は1948年に清水修が作曲した男声合唱組曲「月光とピエロ」でした。
ヨーロッパには管弦楽組曲という形式があり、有名なのは「カルメン」第1組曲(ビゼー)、組曲「白鳥の湖」や組曲「くるみ割り人形」(ともにチャイコフスキー)でしょう。どういう音楽が組曲になるのかというと、バレエ音楽やオペラ(歌劇)の中からカッコイイ曲を選んで20~30分にまとめるわけです。ご存知のように「白鳥の湖」のバレエ音楽(もともとの曲)を全部聴こうと思ったら軽く3時間はかかります。先生はビゼーの歌劇「カルメン」を奥さんと見に行った(聴きに行った)ことがありますが3時間は長いですよ。奥さんは途中から完全に寝ていました(ヒミツの話ですけどね)。ちなみにこの世で最も長い音楽はワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」で全部で15時間ほどかかります(キョーミのある子にはCDを貸してあげますよ)。このように全部はなかなか聴けない音楽の中からカッコイイ曲を集めて気楽に聴けるようにしたのが管弦楽組曲です。
さて、清水修は合唱で20~30分くらいに収まる数曲を組み合わせて、これを「合唱組曲」としました。この「月光とピエロ」が今にも歌い継がれている(嶋田先生も何度歌ったことか)男声合唱の決定的名曲であったために、多くの作曲家がこの形式を踏襲し受け継いでいきました。大中先生も湯山先生も新実先生も、中田喜直も高田三郎も、みんな「合唱組曲」を作っておられます。だから「合唱組曲」は日本独自の音楽形式ということになります。
湯山先生はどういう場合に「合唱組曲」として、どういう音楽には「エスキース」なり「バラード」なりの言葉を使っておられるのか、キョーミ深いところです。今度お目にかかったらゼヒ聞いてみたいと思っています。

さて、「コタンの歌」の第1曲目「船漕ぎ歌」は出だしが実にカッコイイですね。激しく始まったピアノが突如として消えてコーラスが無伴奏で引き継いでいく。そのコーラスが終わったとたんに、また激しくピアノが躍り上がります。P4とP5を開いてみると1段目はピアノだけ、2段目はコーラスだけ、3段目は再びピアノだけ、4段目はピアノとコーラスの合体となっていて楽譜を見た目にも実にドラマチックです。
少し専門的になりますが、5小節目からの「アイヨーアイヨー」はソプラノとメゾソプラノと男声パートが完全平行になっています。つまり音の高さが違うだけで全部同じメロディーになっています。「雉」の「日に映えて 最後の空に」と同じ作り方です。ところがアルトだけ少し違います。5小節目と6小節目の4拍目の「ヨー」、7小節目の「ホアイ」、8小節目の2拍目の「アイ」だけ違う。これは全体の音が聴こえるCDからではナカナカ聴き分けることはできないと思いますから、集まった時にキッチリと確認しましょうね。ただ、もしもできることならば、上に記した4拍目や2拍目だけハーモニーの音色が違うことを意識して聴いてみてください。1~3拍目が青だとすると4拍目だけ一瞬空色になっている、そのくらいの違い。しかも一瞬のことですから「分かんなぁ~イ!」で良いと思います。
13小節「ホーマイホー」に入るとソプラノとアルトは完全平行になります。ソプラノはレードソドー、アルトはラーソレソーですよね。ところがハ長調のラーソレソーは、ト長調に直して考えるとレードソドーになります。つまり音の高さが違うだけで同じメロディーなんです。そう思って聴いていると、聴いているだけでソプラノもアルトも両方とも歌えるようになってしまうはずです。
それよりも「船漕ぎ歌」で聴いてオモシロイのはピアノのペダルの音です。Pedという文字がグチャグチャした書体で記号化されているヤツですよ。最初の1小節目の第1音に二つ付いている記号がそれです。13小節目からは1小節ごとに付けてありますね。
ずぅーと1小節ごとに…かと思ってページをめくると、P6ではそのペダル記号がビョーンと伸ばしてあります。そのビョーンが次の小節で切ってあって、ピアノの音が瞬間消えます。19小節目ではまたビョーンと伸ばしてあって20小節目の頭でスパッと切れる。そうかと思うと21小節目からまた1小節ごとのペダル記号で26小節目でまたビョーン。P8に入ると左手の音に全部ペダル記号が付いています。途中でsimileという記号になっていますが、これは「メンドクサイから以下は省略します。全部同じようにペダルを踏んでください」という意味です。
同じように最初から繰り返されて、P11から再び「ビョーンと伸ばしてスパッと切る」が出てきます。ところが一ヶ所だけワサビが効かせてあります。それはP12下段の61小節目。ここだけスパッとじゃなくてペダルのビョーンになっています。これはおそらくは「もうすぐ曲が終わりになりますよ」と聴いている人に予感させる工夫だと思うんですね。
いやぁ、この部分を歌う時、浜田先生の足元にビデオカメラを置いといて、足がペダルを忙しく踏み分ける様子を撮影したならば、実に生き生きとした音楽記録映画ができると思うんですけれども、いかがでしょうかねぇ(笑)。
この部分、「空」はずうーッと「ホーマイホー」と歌い続けるわけなんですが、ソプラノのレードソドーにしてもアルトのラーソレソーにしても音は3つしかありません。先日書いた福永先生の「もともと取材源の民族音楽が音階は3音しか持たずリズムも平坦、刺激性に欠ける単純なものである…」という解説そのものです。その単純な取材源に変化を持たせ音楽的な魅力を植え付けるために湯山先生が施した(ほどこした)絶妙(ゼツミョー)の工夫でありましょう。

不世出の(ふせいしゅつ・もう二度と出現しないこと)作曲家が施したゼツミョーのピアノの交響を、ぜひゼヒ聴き取ってほしいなーって思っています。
それから「船漕ぎ歌」の歌詞ですが、もうそろそろ歌詞だけならば覚えてくれているでしょうねぇ~(笑)。

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