SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


「聴く力」を高める講座⑦

【令和2年4月15日(水)】
少年合唱とピアノのためのエスキース「四国の子ども歌」の楽譜に湯山先生が書かれた「作曲者の言葉」を引用します。

(この曲は)合唱組曲「小さな目」につづく少年少女合唱作品の第二号であり、私にとっては最初の「わらべ歌」を素材とした合唱作品である。1968年の春に、徳島少年少女合唱団が私の「小さな目」などをもって韓国に演奏旅行をした。その成果に対して徳島新聞文化賞が合唱団にあたえられたが、それを永久に記念するための作品委嘱ときいて、私の胸はおどった。
その年の夏、はじめて徳島市をおとずれた私は、目にしみるような眉山の空の青さに心をうばわれ、阿波踊りの強烈なリズムに身をまかせた。(中略)
なお、この曲の全ての資料は、(指揮者の)上田収穂氏の提供によったことを附記するとともに、このたびの再版にあたって、曲の全体に表現上の加筆と音の部分的な訂正が行われたことを、特に申しそえる次第である。

以下は湯山先生から直接うかがったお話です。

徳島少年少女合唱団の上田先生は、いただいた文化賞の賞金を全部、湯山先生への委嘱料として投入したそうです。しかし、詩人に払うお金は無い。したがって詩は無い。「あるのは昔から歌い継がれる「わらべ歌」の歌詞だけです」と湯山先生に頭を下げられたとのこと。そのかわりに上田先生は徳島県・香川県・愛媛県・高知県から集めた「わらべ歌」を楽譜に書いて湯山先生に送り、地方によって微妙に異なるわらべ歌の歌詞を整理して清書し、湯山先生に送り続けました。
しかし送られてきた「わらべ歌」の楽譜は4小節しかないものや歌詞のないメロディーだけのものもあり、曲名さえ不明というものも多くありました。曲としてまとまった楽譜はほとんどなく、断片的なメロディーが山のように積まれたそうです。
そこで湯山先生は、それらの楽譜をまず4つの県ごとに分けて整理し、徳島県・香川県・愛媛県・高知県に1曲ずつ作曲することにしました。そしてどこの県にも共通する素材を整理し直して、残りの2曲を完成させたそうです。

次に、少年合唱とピアノのためのタブロー「北陸の子ども歌」の楽譜に湯山先生が書かれた「まえがき」を引用します。

1971年、思いがけない電話がNHKの鳥飼文子さんからかかってきた。金沢放送児童合唱団の指揮者・山瀬泰吾氏の企画に応えて、北陸のわらべ唄を素材にした合唱曲を書いて欲しいのですが…という依頼の電話だった。そういえば2年ほど前、全く同じアイディアが私の胸をよぎったことがあったっけ…。
金沢放送児童合唱団から委嘱されたこの曲は、1969年に徳島少年少女合唱団から、やはり委嘱をうけて発表した「四国の子ども歌」につぐ、ボクの「わらべ唄路線」の第二作である。前作は、少年合唱とピアノのためのエスキース(スケッチという意味)というタイトルをつけたので、この「北陸の子ども歌」は同じような発想から、タブロー(絵)ということにした。
この「北陸の子ども歌」は、そういった背景のもとに作曲が開始された。点数こそ多かったが、決して十分とは言いかねる資料の整理は、テープからの採譜の作業とあいまって、実に忍耐のいる作業であった。作曲は1973年の2月からはじまり、5月まで続けられたが、「四国の子ども歌」につづくこの「北陸の子ども歌」の作曲は、いま懐かしい思い出となって私の胸に生きつづける。

再び、湯山先生から直接うかがったお話です。

「コタンの歌」は「わらべ歌」ではないけれど、民族音楽を素材にしたという点で「四国の子ども歌」と「北陸の子ども歌」の延長線上にあります。「四国の子ども歌」を作曲していなければ「コタンの歌」も「北陸の子ども歌」も作曲できなかったでしょうね。その意味では、この3曲は非常に強い結び付きを持っていると言えます。

言われてみれば「北陸の子ども歌」の1曲目「毬つき歌」と「コタンの歌」の1曲目「船漕ぎ歌」の出だしは、もちろんリズムや和音は異なるものの作曲の発想が似ているような気がします(「北陸の子ども歌」の演奏は「空」のHPからアクセスして映像をみることができるので参考にしてみてください)。
「四国の子ども歌」「北陸の子ども歌」と「コタンの歌」との決定的な違いは2つあります。
第一は、詩人の有無です。「四国」と「北陸」はともに作詞者が無く、歌詞は古くから伝えられる「わらべ歌」の歌詞をアレンジしています。これに対して「コタンの歌」は和田徹三の手によるロマンティックな詩がありました。だから「マリモの歌」のようなロマンティックな歌が完成しました。
第二は、素材とする「民謡」なり「わらべ歌」なりの音源が、「四国」と「北陸」では断片的なものながら多くあったとのことですが、アイヌ民族の伝統歌はそれ以上に資料が乏しかったと思われることです。男声合唱の神様と言われた福永陽一郎先生の手記には「もともと取材源のアイヌ民族音楽が、音階は3音しか持たず、リズムも平坦、刺激性に欠ける単純なものであるせいか、湯山作品としては珍しく硬直した書法による音楽が連続する部分がある」と記されています。ために湯山先生の独自の音響が随所に展開されることになったと思われます。前述の福永先生も「にもかかわらず、単純明快なダイナミズムと通俗的な甘さが曲にはあり、それが音楽的快感を呼ぶのは確かだから、それが人々を魅して、人気の源泉になっているのであろう」と手記をまとめておられます。
いわば「コタンの歌」は民族音楽と湯山音楽が融和した音響と分析できるのではないでしょうか。

いずれにしても「四国の子ども歌」「北陸の子ども歌」を歌ったメンバーが残っているうちに「コタンの歌」に取り組むことは、湯山芸術の究極かつ至高の?理解と経験と言う観点から、計り知れない価値があることと確信を新たにしています。

Comments are closed.