SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


チームワーク

【令和元年8月17日(土)】
今日は11月10日の第23回定期演奏会で歌う全ての曲を、プログラムの順番で一通り歌ってみようと計画していました。
見学者が来てくれたらスグに別の作戦に切り替える用意も持っていましたし、お盆の最後の週末ということで欠席者も相当数いることは分かっていましたが、合宿前に一通り通しておくことは有意義であると考えました。
その目的は、どの曲が練習不足か洗い出すということです。どの曲を何回練習したかなんて記録をとっているわけではありませんし(そのような記録は毎回必ず全員が出席…であれば有効となります)、どの曲を歌った時に誰が出席していたかなんて分かる訳がない。運動会だ学芸会だで嶋田先生自身も100%の出席率は不可能ですから、仕方がありません。
その子が出席した日にどの曲を歌ったか…それはある意味、偶然のタイミングになります。だから個々の曲目に対する一人一人の理解度と発酵度は全部異なると考えた方が良い。であれば、今日参加してくれたメンバーだけでも、ローラー作戦で全部歌っておく。そこで洗い出された課題、すなわち「どの曲が練習不足か」という課題がハッキリすれば、そこを合宿で補強することが可能となるはずだ…という計算でした。
結果は大健闘というもので、よく歌ってくれました。大感謝です。メンバーの歌いっぷりから課題を洗い出そうと思っていた嶋田先生の目論見(もくろみ・作戦)は大ハズレでした。洗い出されたのはメンバーの課題ではなく嶋田先生の課題だったからです。鍵盤ハーモニカの指がアルトパートに追いつかない。これは嶋田先生の鍵盤ハーモニカの力量もさることながら、嶋田先生の曲に対する理解度と言っても大きく外れません。ミスタッチの連続でアルトの子には申し訳ない時間が続きました。
しかし(弁解するつもりはありませんが)嶋田先生が「自信が無い曲」という曲は(そんな曲があってはいけませんが)メンバーにとっても「不安を感じる曲」であると言っても大きく外れはしないでしょう。だからその曲を手当てすることは「空」全体としても有効であるはずです。
その曲とは曲集「イルカの翼」の中の「海をみていると」「かげとわたし」「ありありきえた」「うみのこもりうた」で、もう1曲あげれば「夕やけのうた」あたりです。あと、「うたにつばさがあれば」の「となりのカンタロウ」で、九官鳥の声とコーラスのハーモニーをどのようにミックスするか、その瞬間に思い出せなかった。本当にゴメンナサイ。
「白いうた青いうた」と「海と祭りと花の歌」は音は十分に入っているようで、感謝です。CDを聴いてくれているのかな。
いずれにしても予定通りに全部の曲を一通り歌ってしまいました。これはスゴイですね。あとはアンコールで、湯山先生には手紙で ①「きいろいちょうちょ」(湯山先生指揮) ②「くも」(嶋田指揮) ③「あめふりくまのこ」(湯山先生指揮) と提案してあります。明日にでも電話して、別の曲なら別の曲として湯山先生のお考えを確認します。

先週も書きましたが、今日も「とにかく自分のレベルアップだけを考える時間にしましょう」と繰り返した嶋田先生です。「本当のチームワークを作るために」とも言いました。9月になったら表現の練習に入ります。その時に分からない部分があったら本人も面白くないし、表現(チームワーク)にならないからです。この真実の意味を、もう少し詳しく記しておきます。

先ほど甲子園での関東第一高校と鶴岡東高校の試合が終わりました。7対6でサヨナラゲームとなったその試合は高校野球の歴史に残る名勝負として語り継がれることでしょう。途中、作戦タイムを取ってピッチャーの周りに集まるメンバーたちは厚い信頼関係に結ばれて良い表情をしていました。本当に素晴らしいと思いました。
ですが、このチームワークは特異的なものです。特異的とは、特別に用意された(特別に高まった)極めて異質な(例外的な)という意味です。特別に異質な…で特異的です。
どういうことかと言うと、あれはベンチに入った18人が戦ったチームワークであり、レギュラーになれなかった100人近くはスタンドにいるわけなんです。野球の指導者たちは「いや、ベンチ入りしたレギュラーもスタンドにいる補欠たちも一心同体で心は一つに結ばれている」と言うことでしょう。
その意義は認めます。認めますが、プレーできる条件にあるレギュラーと絶対にプレーに参加できない補欠とが、完全に切り離された空間にいることは間違いのない事実です。ベンチとスタンドに分かれているのですから。
そのベンチ入りできた18人目の子と、スタンドに回ることになった19人目の実力者との間に、どれほどの力量差があったのでしょうか。想像ですが、その差は極めて微小な、ほとんど同じレベルの比較であったことと思います。この意味で、18人目と19人目とを分けなければならなかった(子供にそう宣告しなければならなかった)指導者に、嶋田先生は教育者として同情します。本当にツラかったことでしょう。
ですが、教育というものは、勝ち組だけではダメなのです。負け組があってはならないのです。教室の空間で、クラスというメンバーの中で、高校野球と同じ競争(レギュラー争い)が起こり、クラスがベンチとスタンドの二つに分かれるなんて、担任としては耐えられない。絶対に、そんな取り組みは行わないし、参加もしません。
ですが、努力しなくても良いという意味にはなりません。例えば「綱引き」。綱引きで勝とうと思ったら絶対に全員の集中と言うかチームワークが必要となります。すなわち中心が●だとしたら
●→→→→→→→→→→
という方向に全員が引く必要がある。中には必ずいるんです。綱にぶら下がってしまう子が。すると
●→→→→→→↓→→→
こういう形になって、↓の子の後ろにいる3人の力は、その子を持ち上げるために消費されます。すなわち負けることになります。↓の子が力の強い子で体重もある子だったら最悪です。逆に言うと、どんなに力が弱い子でも体重が軽い子でも→の方向に綱を引いているかぎり、必ずチームワークの輪の中に入っていることが断言できます。
教育におけるチームワークとは、全員であることが大前提です。運動会で本当に質の高い「綱引き」という種目を見せようとするならば、紅組10人白組10人にして、厳選されたメンバーを10人ずつ選び、後の子は応援に回ればヨロシイ。小学校3年生でも、相当に面白い競技になることと思います。が、誰も小学校の運動会でそんな「綱引き」を期待しないのです。
高校野球に限らず、体育競技のほとんどは、チームがレギュラーと補欠に分かれます。この形を運動会に持ってくれば精鋭10人で残りは応援団という形になります。教育として考えると、運動会で「精鋭10人の綱引き」は有り得ません。高校野球のチームワークを否定はしませんが、特異的…と記すのはそのような理由からです。
合唱というものには補欠がありません。東海メールクワイアーにも補欠はいません。合唱団「空」にも補欠は1人もいないのです。これは、安閑としたぬるま湯のような話かというとトンデモナイことです。どんなに力の弱い子も、どんなに体重が軽い子もレギュラーなんです。つまり、全員に「レギュラーとしての自覚と責任」が問われることになる。全員に「ベンチ入りする自覚と責任」が問われることになるんです。
これは、ある意味では高校野球よりもキビシイ世界と言えると思います。高校野球でスタンドで応援している野球部員全員にレギュラーと同じ自覚と責任感を持て…と言ってもそりゃ不可能でしょう。合唱は、小学生だろうと高校生だろうと同じレギュラーなんです。これはキビシイ。本当にキビシイ世界だとは思いませんか?
クラスでの綱引きでは → の方向に引くということが絶対的に求められます。では合唱では?
それは歌える部分を増やすということです。いや、全部を歌えるようにするということです。キチンと歌える子なら、たとえどんなに小さな声でも、多少ガラガラ声だとしても、経験年数なんか関係なく、必ずチームの役に立つんです。
先週も今週も言ったことは、→の方向に綱を引ける子になれ…ということです。それだけを考えろ。人のことなどどうでも良い。もし↓の子がいたら、それを注意するのは嶋田先生の仕事であってアナタの仕事ではない。アナタの仕事は→の子になれ。→を少しでも増やせ…ということです。

ちなみに「綱引き」という種目は、たしか6人か7人かのルールで世界選手権があり、日本選手権で優勝したチームが代表として参加します。
誤解の無いように記しますが、その7人の「綱引き」の補欠や応援団のチームワークを否定はしません。高校野球のチームワークも否定はしません。ですが、教育的観点から「それは特異的なものだ」とは言い切ります。
嶋田先生の言うチームワーク…と言うか、教育的観点から考えるチームワークとは運動会の「綱引き」です。全員がレギュラーであることが絶対条件。そこで争うチームワークです。そこでは力が弱くても良い。声が小さくても良い。ただ一つ、→ の方向に綱を引くことができるようにする。すなわち「自分が歌える部分を増やす」ここに尽きます。
合宿では「全員が全部の曲を正確な音程で歌えるようにする」ことに全力を尽くします。みんなもその気になってくださいね。そして9月からは表現を練り上げていきます。

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