SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


名月を 取ってくれろと 泣く子かな

【8月26日(土)】
夏休み最後の練習は9月3日(日)の大中先生記念パーティーで歌う曲からスタートしました。まずは「わたりどり」。
驚いたことに、一人一人が非常に自己確立した歌を歌ってくれました。一通り(発声練習がわりに)歌った後、楽譜を見ないように指示し、歌詞も音程も自分のものになっていることを確認しました。そして、二人ずつのペアで嶋田先生とハモります。二人はメロディー、先生はテノールパートです。
告白しておきますが、先生は真剣に歌いました。みんなのナヨナヨとした声に合わせて自分の力をセーブし、みんなの弱い歌い方に合わせてあげるということを、いっさいしませんでした。つまり今日のみんなの「わたりどり」は、ナヨナヨとしたものでも弱い歌い方でもなく、嶋田先生がフルパワーで歌ってもそれに対抗できるものだったのです。これは驚きでした。
実は、この練習、以前にもやったことがあります。その時は楽譜を手渡してすぐ…ということもありましたが、みんなの集中力と耳を育てるための練習という目的もあって、かなりパワーをセーブしていました。
ところが今日は実に朗々とした歌い方で、先生のテノールに少しも臆することがなく、むしろ先生のテノールの音に合わせて自分のソプラノを歌っていく感さえありました。楽譜を手渡してからまだ日も浅いのに…。メンバーの成長を感じました。
続いて「ブランコ」。これも歌詞も音程もハーモニーも問題はありません。問題は平たんな歌い方、変化のない表現にあります。
まず、「さよなら」という言葉。そして「風が寒くなる」「みんな紫だ」。そして「沈む夕日」ですね。
みんな素直なんです。正直すぎるんです。書いてある言葉を、そのまぁ~んまイメージしているから、さようなら、お別れです、心も寒くなって、ハートも紫色に染まり、夕日が沈んで真っ暗闇…という表現になってしまう。
そうじゃないんだってば。詩っていうものは、書いてある言葉の裏側の意味を感じなければならないんです。
例に、俳句を取り上げました。「古池や 蛙飛び込む 水の音」ですね。これ、どういう意味ですか? 古い池がありました、そこにカエルが跳び込みました、そしたらボチャンと音がしました という意味なのですかね?
英語に直したら、ゼアイズ(そこにある)オールド(古い)レイク(湖・池)、ザ フロッグ(蛙)ジャンプ イン(飛び込んだ)、ハード(聞こえた)ウォーター(水)サウンド(音)となりますかねぇ。そしてこれをアメリカ人に紹介する。きっとこう言うでしょうね。
ジャパニーズ イズ ヴェリー フール(日本人は非常にバカだ)と。
同じことを小林一茶の名句、「名月を 取ってくれろと 泣く子かな」でやってみましょう。

ザ ベビー クライ(赤ん坊は泣いた)、テイク(取ってくれ)フォー ミー(私のために)、ザ メイン(主役の)ムーン(月を)
こんな感じですか?だって書いてあることをそのままイメージしたら、こうなりますよね。
しかし、これは日本人なら誰でも分かります。小学生だって分かりますよ。この俳句は
私に背負われた子が泣いたので、どうしたのかなと思ったら、あのきれいなお月さまを取って…と言う。私はこの子が可愛くて可愛くてしかたがない。
という意味ではないでしょうか。母の心です。これは小学生だって感覚で分かる。分からない人はいないはずです。

さて、これを「ブランコ」に置き換えてみるわけです。「さよなら」は「こんにちは」と置き換えることができるし、「紫」は「愛と思いやりの色」と置き換えることができるでしょう。だって、「さよなら」があるから次の「こんにちは」があるんです。夕日は必ず朝日になるんです。詳しい話はとても再現できませんが、みんなの歌声が変わったことは確かです。

この後は久しぶりに「うたにつばさがあれば」を歌ってから、湯山先生の「新選童歌曲集」です。この童謡歌曲集は、ほとんどの曲がドラマティックに歌う必要がある…ということが分かりました。まるでオペラかミュージカルのように、弾んで(はずんで)弾けて(はじけて)歌うんです。

いちばん分かりやすいのは「ねこのマズルカ」。4小節で一つの歌詞のまとまりになっていることはすぐに分かります。で、前の2小節は元気よく。後の2小節は困った感じやダメだなぁという声の色やまったくズッコケた歌い方がほしいです。具体的に書くと、

「世界で一番」は元気よく、「弱虫ねこ」はダメだなぁという感じで。「けんかをしては」は元気よく、「いつも負け」はアララっていう感じで。「得意の木登り」は元気よく、「降りれない」は困った感じで。「体はでかくて」は元気よく、「名前はチビ」はズッコケた感じで。もうキリがない。続きはお考えくださいませ。

「ぞうのこ」は歌詞の4行ずつがワンセットです。1行目と2行目はノンビリと、あるいは小さく、色で言えば青、静的な感じです。3行目と4行目は生き生きと、あるいは大きく、色で言えば赤、動的な感じです。証拠はですね、「何もしもせずボンヤリボンヤリしてた」の1行目と2行目はノンビリとした声で、「ぼうや おまんまだよ」という母さんの声はウワァーっと生き生きとした声で。ここを表現したいから、その前段に4行×3回があるわけです。

この変化が表現できない限り「ぞうのこ」は完成しないわけでありまして、もう音程とか歌詞を覚えるとかの話ではなく、ふさわしい表現をいかに磨くか…という練習です。いずれにしても、ドラマティックに歌うことが、この歌曲集の眼目です。

休憩の後は「ドミソの歌」です。どうやら今日のメンバーは全員が、楽譜を持たなくてもほぼ暗譜で歌えるようになっているようです。CDを聴いている効果ですかね…?嬉しいことです。

だから今日は、歌詞を間違えても音を外しても良いから…という前置きで、TとSとDの身体表現の練習をしました。この身体表現は、とにかくグニャっと曲がらずにピシッと決めることが大切です。特にTは右手も左手も真っ直ぐにして直角に合わせなくてはTに見えないので、曲がっていてはカッコ悪いことこの上もありません。

それから、その手を表すタイミングですが、曲に合わせてピシッと出して、曲に合わせてピシッと引っ込める必要があります。このタイミングが全員揃っていないとカッコ悪いことこの上もありません。テレビで見たことがあると思いますが、北朝鮮の軍隊の行進のようなレベルが必要です。戦闘集団としてあの歩き方をすることをカッコ良いとは思いませんが、歌唱集団として全員がピシッと揃うことは非常にキレイに見えてとってもカッコ良いのです。

先生は担任だった時はモチロン、教頭になってしまった今でも、運動会の前には体育主任の若い先生に必ず言います。「全校の子にラジオ体操の指導をする時は、最初の「腕を前に上げて伸び伸びと背伸びの運動」の手を上げる最初の動きをピシッと全員で揃えることが勝負だぞ。あとはどうなっても構わない」と。最初の手を上げる動きが、300人いれば600本の手になるのですが、600本の手が一斉にピシッと上がるとすごくキレイなんです。その一瞬で観客はどよめく。最初が決まれば観客にはその印象が残ります。

もちろん「空」は最初だけでなく、全ての動きをピシッと決める必要があります。ですが、その動きは手だけで作るたった3種類で、ラジオ体操のような複雑なものではありません。出すタイミングだけ揃えれば良いのですから、それほどムズカシイものではありません。心配なのはこの身体表現、家では練習できないことです。あぁ、今日もいなかったメンバーの子たち、先生は本当に、血が出るような思いで君たちのことを心配しているんだよ………。

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