SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


「ライオンとお茶を」「薔薇のゆくえ」

【平成31年2月16日(土)】
今日はずいぶんと多くの曲を歌いました。体調不良や嬉しい家事都合(入学説明会)などで欠席の連絡が少なからず入っていたので、発声練習も兼ねて元気の良い曲を歌おうと思っていました。
「ライオンとお茶を」をスタートに持って行ったのはそういう意味です。見事なハーモニーが響きましたね。
ですが、「ライオンとお茶を」の表現を練り上げるためではなく、いつも書きますがメンバーの合唱力を高めるのが目的ですから、全部のパートを全員で歌いました。その上での見事なハーモニーです。
この曲、歌うだけで元気の出る曲ですからバーンと歌えばそれでOKなのです。ですが、巻末の縦書きの詩を読んで、それも単に読むだけだったら、何とも言えない不可解な言葉の羅列です。
「歯医者には泣かされるね」「税金だって安くはない」「ビスケット食べたい」これらの言葉の配列と脈絡を、単に読んで聞かせるだけだったら、読む人も聞く人も「???」で終わってしまうでしょう。
キーワードは「ライオン」です。ライオンとは動物園やアフリカにいるライオンではない。「絶対に理解し合うことのできない人」「絶対に友達になりたくない人」「絶対に修学旅行や遠足で同じグループになりたくない人」を意味します。
「そんな人、私にはいないよ」と言う子がいるならば、あなたは本当に神に祝福された素晴らしい人間関係を持っている天使のような子です。そんな子がいたら嶋田先生はウラヤマシイです。
先生にはいます。面と向かって「オレ、あんたのことキライだよ」などと言ったりはしませんが、できることならば避けて通りたい、会いたくないという人が残念ながらいることを白状します。
これは国家でも同じで、アメリカと北朝鮮との関係も、人間とライオンとの関係に似ている。
つまり絶対に結婚できない、同じご飯を食べることができない、いっしょに野球をすることができない…というのが人間とライオンとの関係です。
しかし…。詩は「ライオンも虫歯になる」と言っているのです。「さあ食べよう」と思っていた肉をハゲタカに掻っ攫われる(横取りされる)ことだってあるのです。「風の道がキレイだなぁ」と思うこともあるし、「草原の星」を眺めることだってある。
こういう意味では人間もライオンも同じことを感じている。これを詩人は問い掛けています。みんな、悩みは同じだね。という思いがこの曲の骨格です。
楽しく歌いましょうね、この曲は。ですが、その楽しさは、いつの日か分かり合える日が来るかもしれない…という未来への希望を持った楽しさになるべきです。上辺だけの楽しさにならないで、みんななりのイメージを広げてください。
「薔薇のゆくえ」は名曲です。今日メンバーに言ったことは1番と2番との間に、新実先生が「ルルル」「ラララ」「ウ」「ア」などのスキャットを入れた理由です。
1番の「薔薇は」も2番の「歌は」も、意味は「私は」です。「私は自分の運命を知り、風と(友達と、あるいは両親と)出かけた」のです。さだめとは「運命」です。
その「運命」とは何かと言うと「自分は必ず死ぬ」という運命です。そして石の荒れ野(嫌なことも辛いこともいっぱいある人生)を経て、散った後に(死んだ後に)歌に生まれ変わった。
「薔薇」の生まれ変わりの「歌」は、星も水もない岩の狭間(辛いことも嫌なこともいっぱいある人生)を経て、砕け散った後に(死んだ後に)雪に生まれ変わった。
私たちも同じです。今、人間として生きていますが、必ず私たちは死ぬのです。自分が必ず死ぬということを、本当に理解している子は幸せです。
なぜなら、その理解は、自分の限られた時間の中で「イジメなんかしている暇はない」と理解していることになるからです。
いったい人間は(限られた人たちは)、なぜイジメとか人殺しとか意味の無いケンカとかができるのでしょうか?
それができる人たちは知らないのです。自分の時間に限りがあることを。自分は永遠に生きていると思っている。取り返しがつくと錯覚しているのです。だから自分の時間をイジメに投入することができる。人殺しをして刑務所に入っても、明日があるさ…なんて思っている。刑務所を出てきた時には老人になっている自分しか残されていないのに。
全ての子どもたちは知らなければならない。自分は必ず死ぬ、父さんも母さんも必ず死ぬ、ということを。そのことに1年でも早く、1秒でも早く気付いた子は幸せです。なぜなら、自分の時間には限りがあると気付いた瞬間から、その子に残された時間(人生)の全ては有効に使えるものになるからです。世の中にはイジメだとか暴走族とか、無効なことに時間を使っている人が多すぎる。
嶋田先生は担任だったころ、そんな投げ掛けを道徳の授業でしていました。今は「空」のメンバーに分かってほしい。嶋田先生も、あなたも、必ず死ぬんだよ…ということを。先生とメンバーに違いがあるとするならば、それは多いか少ないかだけです。嶋田先生には20年、みんなには60年、それだけの違い。長いか短いかだけの話で、みんな運命(さだめ)は同じ。
「ばらは さだめ しり かぜと でかけ た」という歌い出しは、みんながみんなの運命を知っている重みのある声で歌い出したいと願っています。
で、新実徳英が1番と2番の間にスキャットを入れた理由ですが、これは「歌うメンバーの想像を入れなさい」という願いだと思います。「風」に生まれ変わっても良いし、「空」に生まれ変わっても良い。みんなのイメージを入れてくださいという作曲家のメッセージですね。
つまり楽譜どおりの
薔薇→歌→雪  ではなく、
薔薇→歌→風あるいは空(みんなのイメージ)→雪
という構成にしたいということだと思います。

休憩の後は大中先生の「サッちゃん」「知らない子」「なめくじとでんでんむし」「バナナを食べる時のうた」を歌いました。谷川雁・新実徳英の楽曲とは全く異なる、カラッとした楽しい世界です。深刻な感じが全くない、正直に素直に楽しい曲です。
ですが、大中先生は「少年少女合唱には興味がありません」とCDの解説にも書かれているほどで、子供が歌うことを想定して作曲された曲は1曲もありません。「いぬのおまわりさん」にしても「サッちゃん」にしても、プロ歌手あるいは大人の合唱団の歌唱を前提として作られているので、「サッちゃん」の音程には細心の注意を払う必要があります。
それにしても今さらながら、大中先生が唯一指導された少年少女合唱団として、合唱団「空」は幸せな合唱団だと思います。
最後の20分で湯山先生の「また めぐる春に」を選んだこのは失敗でした。「海と祭りと花の歌」の中でも最も大きな曲で、なんとも中途半端な印象を残したまま練習を終わることとなりました。本当にゴメンナサイ。しかし、P58からP60までを美しくハモらせることができたのは収穫でした。みなさん、ありがとう。

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