SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


「練習」と「確認」 老人ホーム慰問コンサート ご苦労様でした

【7月8日(土)】
この日は午後から老人ホーム慰問コンサートがあり、先週は慰問とは関係のない「北陸づくし」一本に絞っての練習でしたから、本番で歌う曲を練習しないわけにはいきません。
しかし、その前半の練習は、「練習」ではなく「確認」でした。結論を記せば、「愛唱曲集」に関しては(新入団員が入ってきたら別ですが)もはや「練習」をする必要はなく、本番で歌うメンバーを前にして、その日の個々の調子やパートのバランスを含めた「確認」をすれば良い…ということが分かりました。
「練習」というのは「練り上げて」「習う」わけですから、まだまだ知らない部分や歌えない部分があり、そこを整理し理解の度合いを上げていくことで大きくレベルアップしていく…。そういう時間を「練習」と定義しておきます。
「確認」というのは「確かめて」「認め合う」わけですから、メンバーは曲のほぼ全てを知っていて、自分のパートは完全に歌え、のみならず他のパートもかなり歌える状態で、もうレベルアップをする余地は少なく、今日の演奏をどう表現するかを試演する…。そういう時間を「確認」と定義しておきます。
8日(土)の前半はまさに「確認」でした。以前にも書きましたが、「愛唱曲集」6曲は本当の意味でメンバーの愛唱曲になっています。
こう書くと、ただ確認してサラッと歌っただけのように読めるかもしれませんが、実はそうではありません。「エーデルワイス」にしても「花は咲く」にしても、「自分ならこう歌いたい」「自分はこう表現したい」という「思い」が一人一人の心の中に膨らんでいるように感じます。
実際に嶋田先生の代わりとして合唱団「空」を指揮できるかどうかはトモカクとして、たとえばクラス合唱で「空がこんなに青いとは」を指揮することになってしまったり、あるいは一人で口ずさんだりする時に、その表現はおそらく嶋田先生が提示するテンポではなく、強弱も歌詞の歌い方も嶋田先生のものとは異なるはずです。
そんな感じがする。論理的に説明し数学的に証明することはできませんが、その「感じ」は確かにあります。それは歌ったメンバーに聞いてもらえればすぐに分かることと思います。

「花は咲く」では12小節目「叶えたい夢もあった…」から始まるフレーズに「心臓の鼓動」のようなリズムを感じて歌うことを「確認」しました。また、21小節目「誰かの歌が聞こえる…」からのフレーズは、「誰かの」「誰かを」「誰かの」「悲しみの」のそれぞれの頭の部分を「鐘が鳴るような響きで歌うように」と確認しました。
表現について要求した新しいポイントはこのくらいかな。あとは「ふるさと」のアカペラバージョンのテンポと強弱かな。「ふるさと」アカペラバージョンは歌うごとに表現が微妙に異なり、もはや全く同じ表現を繰り返すことは不可能です。
書いていて思うのですが、このようなことは「文字」で表現することは非常にムズカシイです。
「鐘が鳴るように…」については、合宿で説明するつもりです。

後半は先週の続きで「北陸づくし」です。11時20分に練習を終わらなければならなかったので、先週と同じく前半を通すことで終わってしまいましたが、後半は転調で音が高くなることはありますが基本的には同じフレーズの繰り返しです。あと1回の時間があれば全曲通すことができると思います。
「愛唱曲集」と違って「北陸づくし」はよく声が出ます。「北陸づくし」に限ったことではなく「駿河のうた」でも「鮎の歌」でも同じことが言えます。湯山先生の魔法ですね。

場所を移動しての慰問コンサートは急遽「春の小川」を追加しました。「エーデルワイス」も「禁じられた遊び」もお年寄りたちはご存知のようで、60年前に「この映画を見た」という反応がありました。
ですが「春の小川」になったとたん、ほとんどの人がいっしょに口ずさみ始めます。「茶摘み」は口ずさみながら手拍子が入り、その手拍子は「富士山」になっても続きます。
岡野貞一なんて作曲家は知らない、その映画を見たことはない…という子が歌い、その作曲家と同じ時代を生きその映画を青春時代に見た方々がいっしょに口ずさむ…。何とも不思議な場面ですが、これこそが音楽の本質であり魅力なのでしょう。

アンコールは「ふるさと」のピアノバージョンですが、それだけでは収まりがつかなくなり、「茶摘み」と「富士山」をいっしょに歌いました。思い切り手拍子を入れた宴会バージョンの「富士山」です。お年寄りたちには間違いなく楽しんでいただけたと思います。
歌っ\\てくれたメンバーとセットしてくださった父母会のみなさんに感謝です。
みなさん、本当にありがとうございました。

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