SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


3月は忙しくなります

3月は忙しくなります。3月11日(土)午後が大高イオンでのミニコンサート。3月18日(土)午後がビッグカメラのコマーシャルソングの録音。これは実際に日本中の店舗で流れます。「ビ~ッグ ビッグ ビッグ ビッグカメラ」という、あの歌です。

そして3月25日(土)通常練習に、エストニアの合唱指揮者アンツ・ソーツ先生をお迎えする予定です。

愛唱曲集の2回目の練習です。先週とは逆の順番で「未知という名の船に乗り」から始めました。なぜかと言うと、楽しいこともさることながら、非常に良い発声練習になるからです。冒頭から「船に乗り」の「ふ」、「地図を見て」の「ち」、「夢という名の」の「め」と、狙う音がどんどん高くなっていきます。こういう部分で自然に腹筋の使い方や軟口蓋(なんこうがい)の開き方などが身に付いてくるのですが(軟口蓋ってなあに?って思っている人、ゴメンナサイね。合唱の専門用語です)、まあ、そんなことはどうでもよろしい。それにしても、どうしてそんなに柔らかく歌うのでしょう。フワッとしていて温かい声の響きで、子守歌だったら最高の歌い方です。それはそれで非常に良い武器なのですが、武器を使う場所が違う。「未知という名の船に乗り」という曲に必要なのはダイナミックに破裂した、生き生きとした声で、いわば乱暴な歌い方です。

武器を使う場所…ということを分かりやすく書くと、野球の試合の前日にゴルフの素振りの練習を頑張って、試合ではバッターボックスでドライバーを使うようなものです。逆に、ゴルフの試合に練習を積み重ねたバットを持って挑むようなものです。

どちらも思い切り振ればボールに当たるかもしれないし、当たればソコソコ飛ぶと思います。しかし、そりゃ試合にならんでしょう?赤ん坊相手なら勝てるかもしれませんが、極めてレベルの低いゲームとなるはずです。

声…というものは目に見えないし形もありませんから、なかなか分かりにくいのですが、ゴルフのクラブに「ドライバー」「アイアン」「「パター」などの種類があるように、「固い声」「柔らかい声」「温かい声」「冷たい声」などの種類が確かにあります。いろんな声が出せるようにしたい。その意味で、今の「空」の子が十分に持っていない「声」と「歌い方」を引き出すために、良い発声練習になりました。

「空がこんなに青いとは」は「未知と…」ほどダイナミックでなくても良いのですが、それにしても柔らかい。ホント、客が聴いたら安らかに眠っていただけるような素晴らしい声(皮肉です)でしたよ。

「禁じられた遊び」は素晴らしい(これはホント)。曲の世界と歌う声の質がピタリと合っています。「禁じられた遊び」を表現するためには、この上もなく上質な声だと言うことができます。でも、コトバが伝わるように歌うのはムズカシイ曲です。伝えたことを具体的に書きます。

3拍子というのは(何拍子でも同じですが)1拍目が一番強い。「川のそばに今日も立てば」の冒頭、「川の」の「か」、「そばに」の「そ」、「今日も」の「きょ」、「立てば」の「た」。これ全て1拍目で、ここを強く歌えば自然に言葉が伝わります。ですが、全曲をその歌い方で押し通すと、トンデモナイことになります。「あれは過ぎた幼い日よ、二人だけで遊んだ日よ」の部分、「幼い日よ」では1拍目を強く歌うと「おさな」「いひよ」と聞こえ、「遊んだ日よ」も「あそん」「だひよ」と聞こえます。このような部分がいっぱいあります。「ほほえ」「んでる」とか、「はこん」「でくる」とか、一度数えてみると良いと思います。

音楽の拍子が持っている強拍(1拍目のことです)と言葉が持っている語感とのズレをカバーして歌うことは合唱の基本中の基本であり、これを小学生が腹の底から実感するために「禁じられた遊び」は最高の教材となります。

「花が咲く」と「ビリーブ」では、「禁じられた遊び」での練習を生かすことができました。「さすがぁー!」とホメておきます。具体的には「笑顔が見える」が「笑顔」「ガミエル」と聞こえることはなく「花は咲く」が「花」「わさく」と聞こえることもありませんでした。「ビリーブ」でも「信じてる」が「シンジ」「照る」とは聞こえませんでした。良かったと思います。

「エーデルワイス」はメロディーを1回通しただけで終わってしまいました。ゴメンナサイ。

で、「Mis on inimene?」に入りました。ビックリしました。響きが先週とはゼンゼン違います。子供たちは明らかにCDを聴き込んでいます。全員かどうかは分かりませんが、聴いてくれた子が相当数いたということは第一声で分かりました。うれしかったなぁ。とは言え、今日が初めてという子もいますから、ていねいに練習を進めました。

ていねい…と言っても、それは音程に関することで、歌詞のことではありません。少し記そうと思います。

先生が持っている原譜には、次のような日本語訳が載っています。

「人間とは何か?

天使の影か、それとも

融和せんと叫ぶ魂の憧れなのか

我々は其々容れ物を通して

偉大なる神の御業、神のご加護によって

貴方がたは護られることでしょう

人間とは何か?

天使の影か、それとも

融和せんと叫ぶ魂の憧れなのか」

この訳詞は楽譜の中の部分部分にちりばめてありますが、それは繰り返しの部分があるからです。古い言葉が使われていて、大人でも現代の感覚では分かりにくいことでしょう。

で、小学生にも分かりやすく、現代の感覚で読めるように、嶋田先生が調べてイマジネーションを拡げたのが、みなさんにお配りした楽譜に書かれている訳詞です。アタシの専門は音楽ではなく、国語なんですからね。

たとえば「天使の影か」という部分は「天使の生まれかわり?」としました。また、「融和せんと叫ぶ魂の憧れなのか」という部分は、「みんなと仲良くしようとする魂のあこがれなのか」としました。

「人間とは何か」という問いかけは古今東西あらゆる芸術分野にあります。嶋田先生は、この問いかけを、子供には分からないものだとは思いません。むしろ、できるだけ小さいうちから気付き、考えるべき問いかけだと確信しています。小学校の1年生だって、分かる子には分かるし、大人だって分からない人には分からない問題です。

先生は、この曲が歌う「人間」という言葉を「自分」あるいは「私」と読み換えます。

私って何だろう?私は天使の生まれかわりなのかなぁ?

と自分を見つめ直す時、みなさんは神の存在に気付くはずです。その「神」とは、キリストのことでもホトケ様のことでもありません。「もう一人の自分」のことです。

「もう一人の自分」は常に自分の後ろにいて、自分が考えることも自分が行動することも全て知っていて、全てを見ていて、完全に自分のことを理解している存在です。

白状しますが、嶋田先生だって悪いことをしたことは数え切れないくらいありますし、万引きをしようかなぁという考えがよぎったことだってあります。悪事を働こうという気持ちを一度も持ったことのない人間なんて、いるのでしょうか?

万引きをしようかなぁと思って手を伸ばした嶋田先生を止めてくれたのは、後ろにいる「もう一人の自分」でした。その「もう一人の自分」が「やめろ」と叫んでくれたのです。

私たちは、このように「やめろ」と叫んでくれる「もう一人の自分」つまり「神」や「天使」を持っているから、イジメや人殺しができないのです。いいえ、イジメや人殺しがいけないことだと知っているのです。逆に言うと「もう一人の自分」つまり「神」や「天使」を持っていない人は、平気でイジメや人殺しができるのです。「やめろ」と叫んでくれる人がいないのですから、やれちゃうのです。

人間には2種類の人間がいます。神を持っている人と、神を持っていない人、この2種類です。このうちの前者に自分はなれるだろうか…という問いかけが、この曲の主題です。

だから「自分を偽る(いつわる=ウソをつく)ことは、神を偽ることなのだ」という歌詞が出てきます。これは、いちおうエストニア語を調べた上で嶋田先生が想像し創造した日本語です。同様に「私は天使になれますか?私が天使の生まれかわりであるのなら」という部分も嶋田先生の想像と創造です。しかし大きくは外れてはいない確信があります。

私は天使になれるだろうか?優しい、素直な、正直な生き方ができるだろうか?いいや、できる。絶対になれる。私は天使の(もう一人の自分の)(父や母の)生まれかわりなのだから!

みんなが、本気でそう思って、ソーツ先生の前でこの歌を歌ってくれるのならば、もう嶋田先生は死んでもいいよ。そう思います。

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