SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


ふれあい合宿(3日目)
たくさんの成果がありました!

【8月28日(日)】

午前中は「鮎の歌」に取り組みました。「鮎の歌」は「命の歌」と読み換えることができます。鮎も、わさびも、雉も猪も、そしていちごたちも、みんな命です。そして生きています。

「生きる」ということは何なのでしょうか?そのことをこの組曲は、歌う人にも聴く人にも厳しく問いかけています。

私たちは人間ですから、交通事故や病気にならない限り80年くらいの時間を保証されています。その80年という時間が長すぎるのです。長すぎるがために、私たち人間は「命」というものの本質に鈍感になってしまっています。

子どもたちに問いかけたのは次のような命題です。

「もし、あなたが、あと3日の命だと神様に言い渡されたら、その残りの3日間をどのように過ごしますか?」

「もし、あなたの父さんや母さんが明日死ぬと神様に告げられたら、今夜の晩ごはんをどのように食べますか?」

鮎は年魚です。年魚というのは1年しか生きないという魚のことです。蝉は1週間しか生きることはできません。そのような運命が最初から約束されて生まれてきたとしたならば、私たちはイジメをするでしょうか。あるいは暴走族になったり、ムカついたと言って人殺しをしたりする時間があるでしょうか。

そのようなことをする人は、80年という時間の長さに目と心が曇って、命とは何かという問いかけに鈍感になってしまっているのです。

いちごたちは温室で育てられています。いわば三度三度の食事に苦労せず、夏はクーラーの効いた部屋で、布団で寝ることのできる合唱団「空」の団員のみなさんのことです。そのみなさんが、自分とは違う立場にいる野いちごたちの声に耳を傾けようとします。野いちごとは、三日に一度しか食事をとることができない、寝る時は毎日地面の上という子(世界にはたくさんいます)のことでしょう。ですが、そんな一見恵まれない子の方が知っているのではないでしょうか。満点の空に輝く星のきらめきや、風にそよぐ木々の美しさを。

鮎は、自分の身を顧みることなく、新しい命を生み出すために、自分が死ぬ場所に戻ってきます。しかも、自分が生まれた川を決して間違えることはなく…。

そして私たちも命である限り、他の命を奪うことなくして生きていくことはできません。命というものは、私たちを含めて、他の命を奪い取ることによってのみ自分の命を継続させることができないという運命を、不可避的、必然的に持っています。

こういうことは、子どもには理解できないことなのでしょうか。あるいは、言ってはいけないことなのでしょうか。私は、そうは思いません。

なぜ、そう思わないかと言うと、「ごんぎつね」「銀河鉄道の夜」などの文学作品や、「鮎の歌」「東北の讃歌」をはじめベートーヴェンやシューベルトなどのあらゆる音楽作品、またムンクやピカソなどの絵画作品など、あらゆる芸術という芸術が、すべて「人間とは何か」「命とは何か」ということを問いかけているからです。その問いかけが、子どもだけを素通りし無視をして成立されたとは到底思えません。

戦い、相手を倒すことも「命」の本質だと「雉」や「猪譚」が問いかけています。相手の気持ちを理解し共感することが「命」の在り方だと「わさび田」や「いちごたちよ」が問いかけています。

そして、何のために生きるのかを「鮎の歌」が厳しく問いかけます。

音楽の構成について、特にピアノの音の意味について言いましたが、ここでは一つだけ記録しておきます。それはP40の3段目、61小節目から始まるピアノの上昇音型。そしてP42の3段目、84小節目から始まる上昇音型です。

これは和音の構成だけならば下降音型でも良いわけです。構成和音が同じなのですから歌うのに支障はないでしょう。実際に浜田先生に下降音型で弾いていただきました。

なぜ上昇音型か。それは言うまでもなく、鮎が遡っていく姿を表しているからです。そうすると、歌うみなさんも、上昇するようにエネルギーが高まっていくように歌わなくてはなりません。ピアノと合唱が融合する上に表現が成立するという、極めて分かりやすい例になると思います。

 

午後は9月の「東日本震災支援コンサート」のための練習を少しした後、最後の2時間は「四国の子ども歌」のおさらいです。

おさらいですが、厳しい練習を突き付けました。「四国ばやし」のP4からP8までを一人で歌ってもらいました。全員にです。

そして、その結果はズタズタでした。高校生といえども100点満点の正確に歌うことができた子は一人もいません。小学生ならこれはもう目を覆うばかりです。

そうなることは当選予想していて、敢えてこの練習に取り組んだ理由は、「できない」「十分でない」と自覚してもらうためです。人によって問題点の多い少ないは違いますが、みんなできないんです。できないのが子どもなんです。赤ちゃんは泣くこと以外何もできないでしょう。みんなは子どもなんだから、できない状態から出発しているのです。授業だって同じですよ。その授業で、その教科書を開いた時、そのページの内容を分かる子は一人もいないという前提で始まるのが授業というものです。

合唱という活動は、互いに互いが支え合うもの(合唱団「空」の最大の武器です)ですから、時として周囲の声に支えられて、「自分はできる」「自分は歌える」と錯覚してしまうことがあります。

それは、合唱という活動の極めて優れた面であり、歌えない子も周りに支えられて自然に歌えるようになっていく…という有益な面があります。

しかし、それは両刃の刃で、支えられて歌っている自分のことを「自分は歌える」と錯覚して、最後までその状態のままでいるという、極めて望ましくない心理を生み出すことがあります。

これは合唱が持っている大きな弱点です。互いに助け合い支え合うという良さが、支えなくしては自立できないという団員を生み出す危険性をはらんでいるのです。

で、一人で歌ってもらった。そして「あなたは、今の歌い方に、自分で何点をつけますか?」とだけ問いかけておきました。

おそらくは、自分の力に絶望し、イヤになってしまった子もいるのではないかと思います。しかし、それで良いのだと嶋田先生は思います。自分はここを失敗した、自分はここを歌えなかったという課題をもって、湯山先生のリハーサルに立つ。これをやってほしい。

逆に、周りの子の歌声に支えられて、自分はチャンと歌えるのだと錯覚したまま湯山先生のリハーサルに立つ子がいたとしたら、それは極めて不幸なことではないでしょうか。

自分の課題を自覚した子は、悩みながら9月3日の練習に来ることと思います。その子たちを全力でサポートし、少しでも安心して自信をもって、湯山先生のリハーサルに立ってもらえることができるようにしたいと思っています。

 

交流という意味からも音楽性という意味からも、様々な試行錯誤があり、そして非常に有益な3日間であったと思います。支えてくださった父母会の方々に、心からお礼を申し上げたいと思います。

本当にありがとうございました。

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