SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


合唱の神様の教え

今日は本当にしばらくぶりに、嶋田先生が自由に練習時間を組み立てることのできる日でした。その場を、高倉さん、恒川さんが献身的にサポートをしてくれて、思う存分に指導することができました。ありがとうございました。

さて、場所はフェールマミですからグランドピアノがあります。何回も書いていますが、ピアノの弦を声の響きで鳴らす練習からスタートしました。この練習、アップライトピアノの音楽プラザではできないし、むろん合宿でもできませんから、フェールマミでは必ず取り組むことにしています。以前に比べてずいぶん鳴らすことができる子もいて嬉しく思いました。

このような基本的な力を養うことなく、いくら曲の練習をしても無駄なのです。いわばザルで水を汲み取ろうとするようなもので、何回やっても水を得ることはできず、時間も労力も無駄なこと、この上もありません。そのことについては後に記します。

 

久しぶりの2時間30分なので、あるアプローチを考えていました。それは、合唱の神様の教えを「空」で試すということです。
合唱の神様とは、男声合唱の神様と言われた福永陽一郎先生のことです。嶋田先生は一度だけ、福永先生のリハーサルを受け、本番のステージに立ったことがあります。

福永先生は「練習嫌い」で有名でした。「合唱をするのに練習は必要ない」と言って憚(はばか)らず、実際に極めて少ないリハーサル回数で素晴らしい演奏を本番で聴かせてくださる方でした。

その練習は、本番でどう演奏するのかを完全に見据えたもので、本番に備えた試演(つまりテスト。試しに本番通りに演奏してみること)であり、その著書の中でも「練習は練習ではない。試しに歌ってみる、いわば試演であるべきだ」という意味の記述があります。

この「試演」を実現させるためには、もちろん様々な「力」が必要です。音を集中して聴く、楽譜を見て音をイメージする、聞いた音を正確に再現する、音程を正確にする、強く弱く大きく小さくなど自分の表現を自分でコントロールする、といった力です。

もちろん大人であるならば、その上に様々な「力」が必要で、福永先生もそれを要求されましたが、大切なことは上記のような「力」があれば「音取り」が必要でなくなるということです。嶋田先生も、福永先生のリハーサルの時、初見に近い状態の曲があったことを白状します。白状しますが、初見であっても、福永先生のリハーサルの後、びっくりするぐらい上手く歌えるようになったなあ…という自分を自覚できたことも事実です。

神様のリハーサルとは、そういうものなのです。

もう一人、合唱の神様を紹介します。大阪合唱連盟・関西合唱連盟の理事長を歴任された須賀敬一先生。東海メールクワイアーも長くご指導いただいている方です。須賀先生は、今年の東海メールクワイアーとの練習で、何度も言われました。「あなたたちは、練習というものをカン違いしとる。練習というものは、何度も何度も同じことをやって、自分が何回やったか、何回歌ったか、それを練習することだと思っているんじゃないか?」

小学生に授業をするのが生業の嶋田先生は???でした。同じ漢字を何度も書く、同じ計算を何度もやる、書いて覚える、やって身に付けるというのが小学生を鍛える方法です。おそらくは日本中の小学生が、同じように思っていることでしょう。「空」の団員の中学生・高校生だって、それが実感でしょう。

須賀先生は続けます。

「そんなん、練習と違うで。練習っちゅうもんは、自分の表現を磨く時間なんや。ここに集まった仲間の表現と合わせて、仲間の表現と自分の表現がどう共鳴するか、それを自分自分が試す時間なんや。音取りとか発声とか家で一人でもできることをこの場に持ち込んでくれるなや。ここに集まったメンバーみんなでなくてはできんことを今やる。それが練習やで。」

今日は「鮎の歌」で、そういう「練習」をやってみようと思っていました。この曲を歌うことが初めてという子もいれば、2回目3回目という子もいます。ましてや「陽が昇る」だとか「ありがとう」「ふるさと」などに時間を投入したために、「鮎の歌」が初見だという子もいます。初見の子も経験している子も、みんなが上手くなる。みんなが「そうか」と新しい発見をする。そんな練習をしたいと思っていました。初見を超える、音取りを超える本質的なもの。それは「音楽に対する共感」であり「仲間と表現を作ろうとする心」です。

 

「雉」。湯山先生の最高傑作の一つと言えるでしょう。冒頭の、山芋・アケビ・野茨・紅葉と、2番の栗・ブナ・漆・熊笹・桂の草木たちのセリフがこの曲を支えます。

1番と2番は音が全く同じです。違うのは歌詞だけ。ですが、全く対照的な表現をしましょう。

1番は直接的に、真っ赤になって雉のために祈る言葉。ダイナミックに直情的に。早い話が熱い表現です。

2番は心の中の祈り。言葉にしたら猟犬に聞こえてしまいます。真っ青になって体を震わせて雉のために祈る言葉。凍りつくような恐怖の表現で。

P6の「見えない見えない見えない鳥」は「見えない」という言葉が3回重なりますが、同じように3回歌うだけじゃダメです。アルトの音はミミレレ、メゾソプラノの音はラソソ、ソプラノの音はレレドド。音が違うということは言っている草木が違うということです。ソプラノは栗、メゾソプラノは山芋、アルトは野茨。それぞれが祈っている。

第2回定期演奏会から歌っている「鮎の歌」ですが、ウィーンで演奏した前回までは、3番で新たに秋柴と野葡萄が登場すると指導してきました。

嶋田先生だって進化します。今回の演奏は3番の「秋柴の影、野葡萄の蔓」も山芋・アケビ・野茨・紅葉・栗・ブナ・漆・熊笹・桂の草木たちのセリフとします。それは秋柴と野葡萄が雉のために新たに登場するのではなく、「あそこに秋柴がある。あそこに逃げろ。そこには影ができている。そこに隠れるんだ」「あそこに野葡萄がある。あそこに逃げろ。そこには蔓があるから猟犬が蔓に絡まるかもしれない」と、山芋・アケビ・野茨・紅葉・栗・ブナ・漆・熊笹・桂が叫んでいる言葉。

そして「音もなく雉よ」は極限まで寒い、凍ったような、青ざめた表現で。次の「雉は飛ぶ、雉は飛び立つ」は一転して激烈フォルテで。

1番、2番、中間部、3番、終結部と、雉と猟犬との距離がどんどん縮まっていくことを念頭に置いておかなくては、これらの表現はできません。

約1時間、音取りは最小限で、いきなり「このように表現するんだ」というアプローチを続けました。集まったメンバーは、これらの本番を想定した「試演」を見事にこなしてくれました。ある意味、信じられない時間でした。これが可能になったのは、音を集中して聴く、楽譜を見て音をイメージする、聞いた音を正確に再現する、音程を正確にする、強く弱く大きく小さくなど自分の表現を自分でコントロールする、といった力があったからです。何度も何度も繰り返して、これらの地道な練習を続けてきて、本当に良かったと思います。これに応えてくれるメンバーも素晴らしい子どもたちです。

 

休憩の後、「わさび田」と「猪譚」を試演しました。時間の関係で「雉」ほど細かくはできませんでしたが、手応えを感じました。

合宿は全て、この手法で行おうと思っています。合唱の神様から学んだことを実践できる機会がある。そういう子どもたちがいる。嶋田先生にとって、この上もない幸せです。
がんばるぞ。

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