SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


合唱は朗読が特殊な形に昇華したものとも言えます
チコタンの最後の「アホー!」を劇的な表現で

久しぶりに「チコタン」をやりました。この曲は,音は非常にカンタンですが,音楽がもつ世界をちゃんと表現することは,とってもムズカシイのです。

昭和43年(1968年)に作曲され,翌年に芸術祭優秀賞を受賞したこの名曲は,当時の児童合唱としては珍しく「負の部分」を扱っています。「負の部分」とは,すなわち「交通事故」であり「死」です。明るく元気で生き生きとしたイメージの児童合唱に「死」を歌わせる構成は,当時としては画期的なものでした。今回の演奏会でこの曲を取り上げたのは,現在,「命の大切さ」が教育の世界で重大に考えられており,しかも「交通事故」という「負の部分」は作曲された当時から考えても,悪化こそあれ改善しているとはとうてい考えられない状況であるからです。

さて,「なんでかな」「プロポーズ」「ほっといてんか」「こんやく」の4曲については,主人公「ぼく」の気持ちがとても分かりやすく,感情表現はさほどムズカシくありません。ただ,「プロポーズ」の「およめさんになってください」という言葉をどもって表現する部分については,妥協せず指導しました。「およ」をきちんと7回言ってから「およめさんに」と言わなければなりません。いいかげんに歌うものだから6回しか言っていないとか,テンポに乗れないとか,一人一人に様々な問題があります。また練習しましょう。

問題は「だれや」です。

「二人で指切りしたのに…」という言葉が3回連続で出てきます。この言葉,同じ歌い方で3回くりかえすだけではダメです。と言うか,そのようにしか歌えないのであれば,この曲を歌う資格がないと言えます。
1回目の「二人で指切りしたのに」は「大人になったら結婚しようと」と続きます。この表現が基準になります。
2回目は「結婚したら日本一の魚屋になろうと」と続きます。1回目に比べて,チコタンを失った悲しみが2倍になっていなくてはなりません。
そして3回目は,その悲しみが3倍表現されなくてはならない。いや,10倍表現してほしい。なぜかと言うと…。

3回目に続く言葉は休符です。つまり歌わないでピアノだけ。この部分,休憩ではありません。ピアノを聴いているだけでもダメです。この休符の意味は,「ぼく」が,チコタンと約束していたことが言えない,涙で言葉にならないということだからです。
約束していた3つめは,「世界一の魚屋になろう」だったかもしれないし,「かわいい赤ちゃんを作ろう」だったかもしれない。そこは歌うみなさんの想像力におまかせするのですが,おまかせするということは自分なりの答えがないといけない。そこが決定的に足りない。足りないから,3回目の悲しみがぜんぜん表現できません。3回ほとんど同じ歌い方で,くりかえされているだけです。これは,ひょっとしたら練習することではないのかもしれない。つまり,練習すれば上手になる…という内容ではないかもしれない。技術でもテクニックでもなく,共感の問題だからです。共感を膨らませることは,技術を伸ばすことよりもムズカシイかもしれません。詩をよく読んで,「ぼく」がどんな気持ちなのか,想像してほしいと思います。
「二人で指切りしたのに」と同じ表現力が,「おいしいエビ(カニ・タコ)食べさしたろ思てたのに」のくりかえしにも求められます。

そして最後の「アホー!」という叫び。気持ちは分かりますよ,自分をかなぐり捨てて絶叫することを求められる,「空」の年頃の娘さんたちの気持ちは。
しかし,合唱とは言葉の芸術であり,言葉の表現力が全てと言っても過言ではないのです。朗読が特殊な形に昇華したのが合唱だと言ってもよく,朗読と合唱は同じ線上にあるものなのです。だから,共感を前提とした表現は避けられないのです。
実は,作曲者・南安雄先生ご自身が指揮をしておられる演奏(みなさんに配付してある音源)も,この「アホー!」という表現は十分であるとは思えません。嶋田先生も過去に3度,この曲を指揮したことがありますが,本当に劇的な「アホー!」ができたことは1度もありません。そのくらいムズカシイことではあるのですが,やってみたいと思います。
本当に劇的に表現できたら,本番の会場は涙に包まれるはずです。できなかったら,会場は笑いに包まれることでしょう。

「チコタン」という曲は,最後の最後,この「アホー!」がどう表現されるかが全てなのです。

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