SORA NOTE

嶋田先生から空のみんなへ


「歌う人」が何を感じ、何を考えて歌っているか

今日で8月も終わり。いよいよラストスパート。

この日に「蝶」を含めて嶋田先生のステージを整理しておき、来週6日(土)は中田先生が指揮される「マリちゃん…」と「雪の降るまちを」を整理して、7日(日)に中田先生をお迎えする…という段取りを考えていました。しかし、その前に「マリちゃんの歩いた夢」について、歌詞の意味を説明しておこうと思ったのを、ていねいにやりすぎて、結局この日は「蝶」と「マリちゃん…」に終始してしまったのは先生のミスでした。来週の練習の時間的な配分を工夫するようにします。

さて、「マリちゃんの歩いた夢」の歌詞の意味ですが、これは前日に話しておくのでは少々遅すぎると思ったので、一週間前に話しておこうと思ったのです。「三才の時、たらいに乗って田植えに出た」その「たらいに乗った」のは「マリちゃん」であることはよいとして、「少し植えては引っ張りランラン」の「引っ張る」とは、何を引っ張るのか。

①たらい ②お母さんの手 ③イネ

正解は①の「マリちゃんが乗っているたらい」です。つまり、みんなは、足が動かないマリちゃんをたらいに乗せて田んぼのドロドロの上に浮かべているわけです。で、母ちゃんはイネの苗を植えながら移動していく。手で植える田植えは、植えながら後ろに移動しますよね。母ちゃんはマリちゃんから離れそうになると、マリちゃんの乗ったたらいを自分の方に引っ張る。で、また田植えをする。また移動して、たらいを引っ張る。その繰り返し。母ちゃんの愛情とマリちゃんの薄幸を感じる部分ですね。では、「ランラン」とは何か。

①母ちゃんの声 ②マリちゃんの声 ③日本に最初にやってきたパンダの名前

正解は②の「マリちゃんの声」です。たらい…いわば船に乗って、田んぼにプカプカ浮いて、それで自分で漕がなくても母ちゃんが引っ張ってくれるので船が進む。3才のチビちゃんにとって、これほど面白い遊びはないでしょう。しかも、みんなは働いていて自分だけ見学というか遊んでいられる。いわゆるスペシャル・ゲストです。ただし、みんなもドロドロになっているけど、マリちゃんも「たらいの中も暑かった」というわけです。

「ぼたん雪が…落ちてくる」「弟は口をあけて飛び回っている」この弟は何をしているのか。日高君が答えてくれたように、弟は「雪を食べている」わけです。その、庭で雪を食べている弟の姿を病室の窓から見ている…、そのマリちゃんの気持ちを考えることが大切になります。「私なら、大きな口をあけて雪をたべるなんて、そんな下品なことはしない。できることなら、雪の花の中に寝転がって歌をうたいたい」と思っている。コーラスは、そこまで歌ってP13の3小節目から、再び「ぼたん雪が、くるくる舞いながら落ちてくる」と歌います。その繰り返しの部分は、単なるリピートではなくて、その晩にマリちゃんが見た夢です。その夜、マリちゃんは、ぼたん雪の中で、その桜の花びらの中で、自分が治って歌をうたっている「夢」を確かに見たのです。このシュチエーション、真剣に思い浮かべたら涙が出てきませんか?

その、「現実のぼたん雪」と、「夢の中のぼたん雪」との二つの「世界」を表現するために、P13の2小節目~3小節目のf(フォルテ)からpp(ピアニシモ)までの表現があるのです。通常、わずか1小節の中で、fからppまでの変化を付けることなどありえません。これを、ただ大きな声から小さい声にするのではなく、なぜ「そう表現するのか」考える心をもちましょう。そのように考えることのできる心、本当に共感できる力。それを「思いやり」というのです。そのような夢を見ているマリちゃんの気持ちを、マジで「思いやること」のできる子は………、どう思いますか? 決してイジメなどしないし、大人になっても不正など決してしない、そんな人になるんじゃないかな。

書いてある文字を、書いてあるとおりに歌うだけならば、殺人犯にだってコンピューターにだってできることです。「歌う人」が何を感じ、何を考えて歌っているか。コンサートというものは、そこが問われると思うし、「空」の子たちにはそんな感性を育んでほしいのだ。

「テレビ」は上手。問題なし。

4曲目。「大きいのが父と母ちゃん、小さいのが弟たち、一番美しいのが私」これ、どういう意味ですか?まさか、鏡を見ながら「鏡よ、カガミ。いちばん美しいのは誰?あ~ん、ワタシなのよ~ん」と思っているわけではないでしょうね。

マリちゃんは看護婦さんに、ホウセンカの花びらを取ってもらってママゴトをして、大きいカップや小さいカップや美しいカップを作った。その一番きれいに完成した「花びらの(ごちそうの)カップ」を食べるのは私、と言っているのです。これ、小さい子の自己中心というか勝手というかワガママというか、そういうことではなく、歩けるようになりたい、誰もが味わえるその幸せを自分も味わいたい、というマリちゃんの願いに結びつけましょう。父ちゃんも母ちゃんも弟も「歩ける」という幸せをもっている。私にはその幸せがない。だから、せめて「一番美しいのは(カップは)私のもの」という気持ち。ただ、この部分。暗く歌わないこと。父ちゃん母ちゃん、大きいのをハイ、あげる。弟は、小さいので十分でしょ、ハイ。どうぞ召し上がれ…てな感じで、サラッと、むしろ乱暴に歌いましょう。大切なのは、その直後の「おばあちゃんも、死んだおじいちゃんも」ですね。

まずP18、「一人、ママゴトをした」この部分は一人ぼっち。でも、ドアを開けて、父ちゃんと母ちゃんと弟が入ってきてくれた。この部分は一人ぼっちではない。だからカップをあげた。そしてマリちゃんは、(おそらく病気か何かで家で寝ている)おばあちゃんと、(もう天国に行ってしまった)おじいちゃんにも、このカップを食べてほしい…と思った。だから「家のホウセンカも咲いたかしら。そこにはおばあちゃんもいるし、(仏壇には)おじいちゃんもいる。そして、こんなカップではなく、本当のママゴト道具もあるから、もっと美味しそうなホウセンカのごちそうを作ってあげられるのに」と思っている。「おじいちゃ~ん」って。この部分、だから可哀想かわいそうって思って暗く歌うのではなく、ある意味では非常に強いマリちゃんの気持ちを、ぶつけるように強く歌った方がよいと思います。

6曲目。「きれいな道。あっちゃんとなあちゃんと手をつないで、こっちへ来る」この部分の「あっちゃん」と「なあちゃん」って誰?これは、二つしか考えられない。どちらかが真実です。が、どちらが真実か、今となっては分かりません。好きな方を選びましょう。あるいは、嶋田先生の気付かない正解を他にもっているのなら、それでけっこうです。

①「あっちゃん」と「なあちゃん」は、マリちゃんの弟たちの名前。②この二人は、マリちゃんと同じ病気か、あるいはもっと重い病気で入院していて、(おそらくは)もう死んでしまった病院の友達。

これ、けっこう難しく、ある意味では危険な判断です。①ならば、夢の中で歩くようになれたマリちゃんに、「わーい」って言いながら二人の弟たちが駆けつけてきてきれて、3人で「きれいな道」を歩いた。どこまでも歩いた…という夢。②ならば、「マリちゃん、がんばって。希望をなくさないで。私たちの分も。」と、二人の友達が夢の中に出てきて、「ああ、みんなで歩いた。歩けたんだ」「あっちゃんやなあちゃんの分も、わたし、生きる」と決意した夢。これは、どっちが正しいとか、どちらが正解というレベルではない、これは歌う人の主体性と感性が問われる部分です。

先生としては「空」の意見が、①と②が半々になってくれると嬉しいです。もっと嬉しいのは、中田先生が「実は」と真実を教えてくださることですし、いちばん嬉しいのは、この二つ以外に「私はこう思う」という自分なりの考えを示してくれる団員が出てきてくれることです。

その後のP27から7曲目は、絶望的な、激烈な、魂を引き裂くような「怒り」と「叫び」になります。そこは、もう、みなさんを信じて大丈夫。と、いうわけで、前半の1時間を「マリちゃんの歩いた夢」に投入してしまった。

後半の練習は「蝶」です。「誕生」「飛翔」「灰色の雨」と「よみがえる光」を通しました。「越冬」ができなかったのが残念でしたが、基本的には通して歌うことができるようになったことが大きな収穫でした。くわしく書けば、きりがありません。それでは、みなさん、おやすみなさい。次週は中田先生をお迎えします。いざ、勝負。です。さあ、みなさん、たのみますよ。

合唱団「空」の大いなる集中と音楽を楽しむ姿勢に期待します。

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